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    聖体拝領の真の意味

    2016.10.23 Sunday

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      『聖体拝領の真の意味』デ・シェギール著 ドン・ボスコ社 昭和二十五年発刊

       

      聖体拝領の真の意味の表紙

       

      … それでは聖体拝領の真の目的、即ち目指すところは何であろうか? 外ではない、我等の霊魂が恒に清らかで生々として天主と結ばれている其の状態を持ちつづける事である。我等のうちに霊的そして内的生命を保つ事、我等を人生の闘いに於いて気絶しないように守ること、洗禮と堅振とによって、天主から授かった聖寵を失わないように守ることである。
      従って、聖体の秘蹟の特別の恵みは、養育と保存の恵みなのである。我等の主は聖体に就いてこう言っている。即ち「我等は聖体拝領を通してのみ、キリスト教的生活を為し得る」と。「誠に實に汝等に告ぐ、汝等人の子の肉を食せず其血を飲まずば、汝等の衷(うち)に生命を有せざるべし。」(ヨハネ六ノ五四) カトリック信者として天主と一致しているには、我等は聖体拝領に依らなければならない。体に対して言えることは、魂に対しても同じく言える。我等は食べないでは生きる事が出来ない。食物は生命を与えないが、生命を支え、我等が健康と呼ぶ活力を与える。ここで肉身は全く霊魂のシンボルとなっている。霊魂も又、其生命を持っている。それはイエズス・キリストを通して天主と一致する事によって生ずる。そしてこの一致が聖寵と呼ばれるのである。それを養うために食物がいる。その食物が即ち聖体に在すイエズスなのである。イエズスはこう言っている。「我は生命のパンなり。汝等の先祖は、荒野にマンナを食して死せしが、是は天より降るパンにして、人是を食せば死せざらんためなり。(ヨハネ六ノ四八—五〇) 蓋し我が肉は實に食物なり。我血は實に飲物なり。我肉を食し我血を飲む人は我に止り、我も亦是に止る」と。(ヨハネ六ノ五六・五七) 食物なくして肉身を生かして置けないと同様、聖体拝領なくして聖寵を霊魂に留めて置くことは出来ない。肉身の力と健康が食物に依ると同様、霊魂の生聖及びその活力は聖体拝領に依るのである。聖体拝領は、これをよく理解するなら、既にもっている聖寵に対する報酬ではなく、むしろそれは、聖寵を増加する手段である。それは唯手段に過ぎない。肉身を養うことも是と同様である。我等は強いから食べるのでなく、強さを保つために、或は強くなるために食べるのである。そして肉体的養育が肉体的生命のために習慣として度々繰返されると同様、カトリック信者の生活に於いて聖体拝領は極く習慣的なものとならねばならない。
      これがカトリック教育が我等に与える聖体の真の目的である。其れが為にトレント会議は、あらゆるキリスト教時代と、教会のあらゆる教父等の証言を引用して、次のような希望を正式に述べた。即ち「最も聖なる犠牲の實を一層多く刈り取るために、精神的に聖体を拝領する事に満足せず、信者は毎日実際に聖体拝領をして欲しい」と。これが真理であり、天主の御意である。これが教会の誤りなき声を通して、天主が我等に与える規則である。各人は此真理を肝に銘じ、もし必要ならば、決して誤り得ないこの判断を以て、自己の意見を正さねばならぬ。
      立派に聖体を拝領するためには、或程度の成聖を備えてをらねばならないと言うのは本当である。然し此成聖とは何であろうか。これは偉大なる聖人や殉教者の持つ完全さであろうか。決してそうではない。其れに必要な成聖は、貴方の手の届く所、すべてのカトリック信者の手の届く所にある。これは唯、罪をさけ、忠実に天主に仕えると言う真面目な意志を持つ聖寵の状態のことである。この状態は極く基本的な事であはないだろうか。貴方は天主がこれをせつに望んでいると言う事を感じないであろうか。天主は実際それを貴方に望んで居られる。即ち、これなくしては誰も真のカトリック信者なり得ないと仰せになる。大罪の状態にあって、悪を喜ぶ人は一体如何なる種類のカトリック信者であろうか。
      立派な聖体拝領のために、我等の主は、唯貴方が真のカトリック信者であること、真面目な善意によって、天主の方へ導かれることを望んでいる。貴方は此意志を持っているであろうか。良心に答えさせて見よ。もし持っていないならば、其れを求めねばならない。さもなければ、地獄は貴方のために勝利を得るであろう。もし持っているならば、何故それを強くし、増すために聖体を拝領しないのか。それは明瞭で然も答えにくい問題である。同じ事を偉大なる聖会博士大司教聖ヨハネ・クリゾストムがコンスタンティノープリの信者に向って呼びかけている。彼は言う。「貴方は天主の恩寵の中にあるか、又はないかの何れかである。もしあるならば、何故聖体拝領をしないのか。聖体拝領は貴方の聖寵を保つために定められたのである。もし罪の状態にあるならば、何故立派な告解によって心を清め、聖なる拝領台に近づいて再び罪におち入らぬように力をうけないのか?」と。もし貴方が天主に近づくためにふさわしい者になるまで待たねばならないならば、拝領するものは一人もいないであろう。聖アムブロジオは言っている。「もし毎日あずかるのにふさわしくないならば、その人は一年間で果たしてふさわしくなるであろうか」と。…教会は貴方も、又他の誰でも、共にふさわしくないのを知っている。其が為に教会はすべての教会の子供に、すべての司祭に又司教にさえも、聖体拝領の前に斯う言わせる。而も一度ではなく三度までも「主よ、我は不肖にして主をわが家(や)に迎え奉るに堪えず」と。教会は貴方が聖体を拝領するにふさわしい者であるから拝領させるのではなくして、貴方を最も聖にして寛大なる主に出来るだけふさわしい者とするために必要であるからである。教会が度々あるかるように勧めるのは、貴方が聖であるからでなく、貴方がそうなるべきであるからである。貴方が強いからでなく、弱くて、不完全で、悪に傾き、誘われやすく、罪におちいりやすいからである。…
      四世紀のある敬虔な博士は、度々聖体を受ける者と、稀にしか受けない者と、どちらが一層謙遜であるかと自問自答して見た。其の答えは正しく次の通りであった。即ち「イエズス・キリストを度々受ける者は、より謙遜である。何故ならば、それは彼が自分のみじめさをよりよく知り、それをなおす必要を一層強く感じているしるしであるからである」と。貴方は度々受ければ受ける程、ますます受けるにふさわしい者となるであろう。…
      聖アルフォンソは言った。「数少なく聖体を拝領した方が、もっと多くの信心を経験すると言う考えによってだまされてはいけない。事実稀にしか食べない人は、より偉大なる食欲を以て食べるが、規則正しく食事をする人のように強くなる事は出来ない。もし貴方が稀にしか拝領しないならば、貴方は恐らくもう少し感覚的な信心を持つであろうが、聖体拝領によってそれ程益する事も無いであろう。何となれば、貴方の心は多くの過失を避ける力に不足しているから」と。従ってほんの少しばかりの感覚的な信心に就いて考えるのは止めて、一層高い見地から敬神に就いて考えよ。聖体拝領の中にイエズスの真の実際的な愛を求めよ。そうすれば、それを貴方は何時でも発見するであろう。…
      教会は度々拝領するように勧める。もし出来るならば、毎日でも。然しその度毎に告白する義務が有るとは言わない。トレント会議によれば、我等が聖体拝領の前に告白する義務が有るのは唯「我等が大罪を犯した時」である。秘蹟に度々近づいているカトリック信者の魂は稀にしか大罪を犯さない。人間の弱さ故に普通に陥る余り重くない罪、即ち小罪に関して、確かに信仰は我等にこう教えてくれる。即ち「天主の愛を真面目に実行する事に依って、又痛悔によって、小罪を充分に消す事が出来る」と。そして此罪の赦しをもっと容易にするために、教会は準秘蹟と言って、我等の良心を浄化する最も簡単な方法を定めた。即ち聖水を以て十字架を印すこと、主祷文・告白の祈等である。
      前回の告白以来犯したいくつかの小罪の為に、貴方が聖体拝領を躊躇するならば、カトリック教会の偉大なる声は「聖体拝領は大罪を防ぎ、小罪を消す」と宣言すると言うトレント会議に耳を傾ければほい。
      これをよく理解せよ。告解でなく聖体拝領が日々の過失を消すために定められたのである。火が藁を燃やし尽くすように、聖体拝領は過失をすっかり食いつくしてしまう。火は石や鉄をなくするものではない。大罪は石や鉄のようなもので、告白の鉄槌によってのみ打ち砕かれる。藁は如何に我等の良心が真面目であろうとも、我等が日々犯す軽い過失を意味する。恐れず、喜びを以て聖体を拝領せよ。貴方は度々或は毎日でも聖体を拝領して、我等のよき主をもう決して困らせはしないと信じて安心せよ。…
      もし貴方が毎日よき聖なる生活をしているならば、貴方は常に充分聖体拝領の準備をしているのである。パッツィの聖マリア・マグダレナは、或朝修道院の為に自分の労働を捧げていた。心は祭壇の前にあった。彼女は何も心の準備はしなかったが、愛に燃え、両手にくっついた生パンにさえ気がつかずに、イエズスを受ける為に聖堂へ行ったのである。又カルメル山の修道女等の目上であった聖女は、彼女等に向って斯う言うのが常であった。「貴方達が為すすべての事を天主に捧げて下さい。天主を喜ばせる為に、すべての行いをすること。そうすれば、貴方達は恐れないで拝領台に近寄る事が出来るでせう」と。聖アルフォンソは斯う付け加えている。「何か善い仕事のために、或は国家の任務の為に、準備の時間が無いからと言ってそれを理由に聖体拝領をやめてはいけない。無駄な会話を避けるように、延期をよぎなくするすべての仕事を避けるように、唯注意しなさい。」…
      聖ペトロは奇蹟的な位置網によって、彼のボートに入った御方の神聖さと、威風とを知った時に、自分の身をイエズスの足下に投げ出して言った。「我は罪人なれば、我より遠ざかり給え」と。自愛深き主は「おそるる事勿れ」と答えた。(ルカ五ノ八) 貴方も恐れてはならない。貴方の心は天主のためであり、貴方は天主に忠実に仕えたいと望んでいる。天主はもうそれ以上の何物をも貴方に要求しないし、貴方の煩悶も貴方を身捨てず、却って貴方をへり下せるに相違いない。大概、確かにそのような煩悶は、頑固なものではなく、又貴方から聖体拝領の効果を奪いはしない。良い意志の有る所に、善い聖体拝領も有る。乾燥や嫌悪に会い、感覚的慰安の不足、なやましい煩悶等の為に、聖人等でさえ貴方のように苦しんだのであった。聖ヴィンセンシオ・デ・パウロは、信徳誦さえも誦えられないような、精神的乾燥の状態に二年間暮らした。悪魔が彼の煩悶の状態を利用して、烈しい誘惑を以て彼を悩ました時、哀れな聖人は、自分が其目的の為に書いて置いたクレド(信条)を心臓の上に置いて、僧服(スータン)に縫いつけ、断然我等の主に一致したのであった。彼が手を紙にふれる時は、何時でも、それは彼が最早なし得なかった敬神の行為と、等しいものであったに違いない。彼は自分の信仰に何の感動もなく、毎日ミサを立て、彼の精神的訓練を継続した。私は貴方に聞きたい。「聖ヴィンセンシオの聖体拝領は善かったであろうか?」と。…聖テレザに依れば、そのような愁嘆きの状態にある魂にとって、度々聖体拝領をする事より善い薬は無いのである。…
      聖体は天主の愛の源である。冷たいと貴方が感ずれば感ずる程、それ程貴方は熱の源に引かされるのである。…貴方が普通の食事をしている時でさえも、弱っていると感ずるならば、そのような時に何も食べなかったり、又は殆ど食べなかったらどうなるであろうか、弱るより先に、貴方は先ず飢えて了うであろう。もし、貴方が強き者のパンを食べないなら、貴方の弱さは十倍も増し、今貴方がしているように、小さな過失に就いて嘆くどころではなく、深刻なる過失即ち大罪に就いて嘆かねばならぬであろう。「私は毎日罪を犯す。毎日犯す故に薬が必要である」と言う聖アムブロジオの言葉を、聖トマス・アクィナスが引用している。ローマの聖フランシスが聖体拝領後、ほんの僅かしか進歩しない事を不安に感じた時に、聖マリアは彼女に理解させるために、やさしい愛情をこめて斯う言った。「我が子よ、貴女が犯した過失のために、聖なるテーブルから遠ざかってはならない。反対にその過失こそ貴女を度々聖なる食卓に導くべきである。何故ならば、祭壇の最も聖なる秘蹟のうちに貴女のすべてのみじめさに対する薬があるのだから」と。…
      毎日の聖体拝領は、彼らに罪をまぬかれしめなかったが、成聖の道に於いて彼等を大いに助け、多くの大いなる欠点から救った。又彼等の中の多くの者を、無数の徳で飾った。それは又、貴方にとっても同様である。…貴方は度々聖体を拝領すれば、貴方を知っている人々の躓きとなるのが恐ろしいとでも言うかも知れない。…それでは何が度々聖体を拝領する人に就いての躓きの原因となっているのだろうか。それは聖体拝領ではなく、度々聖体を拝領するにも拘らず、自分の悪の傾向を止めもせず、宗教的実践に生きるのを怠る事である。それは譬えば、短気な行い、不貞節、貪食、自分の健康や慰安等に就いて余りに詳細に気を配る事等である。これ等は最早欠点の域を越える数多くの過失であり、又これ有るが故に、自らの成聖を配慮する良心の注意を集める事が出来ないのである。もしも貴方がこの点で罪が有るとすれば、それを天主は禁じ給うのであるから、貴方は直ちにこの甚だしい悪を効果的になおすべきである。貴方は聖体拝領を止めるべきではない。生活をもって清くもつと我等の救主イエズス・キリストにふさわしくするために、貴方自身をふるい立たせるべきである。…
      聖体拝領はすべての聖寵、平和および善良の源である。もし貴方が度々よく拝領するならば、短期間でより善くなる事が出来るであろう。…
      一方私は本当に敬虔でない人が、度々聖体拝領すると云うのを見たことさえない。何故ならば、単に規則的な生活を送る人を我々は敬虔であるとは言わないし、又、規則的である事は敬虔なことでもない。何故ならば、規則的生活とは、天主の法律を守り、教会の法を守り、主日と祝日とにミサに与り、宗教を尊敬し、正しい生活をしている事で充分であるから、敬虔であるためにはより高く行って、イエズス・キリストの愛のうちに住まねばならぬ。一度敬虔の道に入れば、カトリック信者はもはや単に教を守る事だけでは満足出来ない。信者はその上に福音の教、自己否定、内的回想、霊魂の救いに対する奮発、キリスト教的成聖を作るすべての美しい徳を実行に移すのに一生懸命になる。義務と言うよりも愛によって行動するのである。貴方は天主への奉仕を重い軛とするのではなく、優しい子供のような感情で生きいきとさせた多くの人々を知っているであろうか。教会は敬神の根本的行為として、我々に聖体拝領を公表しているのであるから、原因がなくて結果が有れば、これは前代未聞である。経験がそれを示している。よい食物なくして立派な申し分のない健康を持つ事よりも、度々聖体拝領をせずに敬虔である事はより不可能なことである。
      聴罪者、或はもっと正確に云えば、霊的指導者は、キリスト教的完全さに向って我等を導き、助言を与える神父である。我々は指導者をえらぶ義務が有るのではない。然し敬虔の道に於いて聖なる経験の有る神父によって導いて戴く事より以上に賢明で、カトリック的実践に、より適ったものはないのである。…
      教会の真の精神を汲んでいるすべての聖人のような神父達は、度々聖体を拝領する事を好む。そしてこれに就いて、彼等は単に教会が公表する一般的規則を適用するだけである。なぜならば、事実我々は、聖体拝領の規則に関しては自由ではない。この題目に就いて、我々は霊魂の指導者に従わねばならない詳細な規則を持っている。又我々がその規則を放置するならば、それは義務を大いに妨害する罪となるのである。教会はそのような規則を有名な「公教要理」にまとめた。それはトレントの公教要理として知られ、教皇ピオ五世の指導により、トレント公会議の命によって出版されたものである。トレント公会議の公教要理は、次の如く宣べている。主任司祭は、必ず教会信者が度々又は毎日でも聖体拝領をするように努力すべきこと、何故なれば、肉体と同様、霊魂も毎日滋養分を与えられねばならないから。これが司祭及び公会議の教義である。
      敬虔なるブロアのルイは言う。「或日、我等の主は、他人に度々聖体拝領する事をやめさせた人達に就いて次の如く歎かれた。〝我がよろこびは人の子等と共に在る事である彼等のためにこそ祭壇の秘蹟は定められたのである。霊魂が我を受けるのを妨げる者は、我が歓喜を減らす者である〟」と。又聖フランシスコ・サレジオ及び聖テレジアによって非常に高く評価されていた敬虔なるアヴィラの神父は「度々聖体拝領をすることに欠点を見出す者は、聖体の秘蹟を最も強く憎む悪魔の役割を演ずるものである」と常に言っていた。コルトナの聖マーガレットの指導者は、常に彼女が度々聖体拝領をするように大いに激励した。彼が死んだ時、我等の主は彼女に、この善き司祭は彼女が聖体の秘蹟に近づくのを容易ならしめた其愛徳により、天国に於いて多くの報酬を受けたと言う事を示されたのであった。又イエズス会の聖アントニー・トレスと言う聖なる修道者の生涯の中で、我々は次のような事を読むのである。「彼が痛悔者に向って度々聖体を拝領するように勧めたために、天国に於いて彼の栄誉は大いに増した」と。絶えず自らの職務のために、教会の指示に従う事を目的とする司祭は幸福である。又そのような人生の案内者を以て、天主が自らの善意によって祝福する霊魂は幸である。…
      カトリック教会が勧める事は大げさでも不可能でもない。教会は天主に対する拝礼の真理を我等に与える。我々が教会に耳を傾けるならば、我々は、イエズス・キリストに耳を傾けているのである。教会の教訓を軽んずれば、天主の光を軽んずるものである。カトリック信者が、天主の権威に就いて余り考えようとしないのを見る事は不思議である。貴方の信仰を堅くし、又其のすべての実際的な結合を堅くせよ。イエズスが教会を通じて貴方に語り給うたのだ、と貴方は信じ、又知っている。唯耳を傾け、イエズスを認めるだけで満足してはならぬ。思う存分にイエズスの教えを実行せよ。真理を望まない人には、つぶやかせておけばよい。彼等が聖体の秘蹟に対して尊敬を払うために、どんな事をしているかを彼等に示させよ。…「汝等常に主に於いて喜べ。我は重ねて言う、喜べ。」(フィリッピ四ノ四)そしてイエズスのために生きることを望み、イエズスを以て自らを養え。

       

       

       

       

       

       

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