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2017.01.04 Wednesday

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    煉獄論

    2016.09.06 Tuesday

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       『Trattat del Purgatotio』di Sancta Caterina da Genova
      ゼーノヴァの聖女カタリナ『煉獄論』昭和二十五年 ドン・ボスコ社発行

       

      聖女カタリナは、内心に感じた神来の聖火によって煉獄を悟り、同時に煉獄の霊魂が如何に幸福であると共に、又苦しんでいるかに就いて語る。

       

      第一章

       

      煉獄の霊魂の状態。彼等には自愛心がいささかもない

       

       まだ肉体の囚獄(現世)の中に在りながら聖女カタリナは、霊魂を浄化する火である神の燃ゆる愛の中に置かれたことが解った。この愛の火は、彼の女が現世の生涯を終えて後、愛し奉る神の御前に速やかに到るため、彼女が浄められねばならなかった凡てのものを焼尽し、又その一切から彼女を浄化した。この愛の竈によって、彼女は信者の霊魂が現世に於いて、いまだ浄められずにあった罪の錆と汚点(しみ)とをすべて除き去るため、煉獄におかれることを知った。聖女は、人の霊魂を浄化する神の愛の竈の中に入れられ、彼女の愛の対象(神)と一致させられて、彼女になし給うた神の一切の御業に全く満足したとき、煉獄の霊魂の場合と同じ状態にあることを悟り、次のように語った。


                   *     *      *

       

       私にわかる限り、煉獄の霊魂は煉獄に留まることより他選ぶことが出来ない。これは神が義によってこのように命じ給うたからである。彼等は内省して、”私はかくかくの罪を犯したから、此処にとどまるのは当然である” とか、”かくかくの罪を犯さなければ今天国に行けるのに”、”彼(あ)の霊魂(ひと)は私より先にここを出る” とか、”私の方が彼(あ)の霊魂(ひと)より先にここから出るであろう” などと言うことは出来ない。又彼等は、善についても、また今不断に堪えている苦しみに更に苦しみを加えるはずの悪についても、自分のことにしろ、他人(ひと)のことにしろ、何一つ思い出すことは出来ない。彼等は、神が彼等に就いて定め給うたものに満足しているから、神の聖旨にかない奉るものをことごとく望み、そして聖旨に就いてかなひ奉る方法に於いてそれを望む。更にいとも大いなる苦しみの最中に於いてさえも、自分自身のことについて、恐らくは考えようとするかもしれないけれども、もはや考えることが出来ない。
       神の仁慈は、人々を御自身に引寄せ給う程大であるから、煉獄の霊魂は、神の全善だけを観る。それで、善でも、悪でも、彼等に影響するものを何も、観ることは出来ない。もしそれが出来れば、彼等は神の純愛のうちにとどまっていないことになるであろう。彼等は、煉獄に於ける苦しみが自分の罪の故であることを識らず、又自分自身の罪そのものを、絶えず見つめていることも出来ない(A)。この罪を見つづけていることが出来るとすれば、それは短所となるが、もはや実際に罪を犯す余地のないところには、短所もあるはずはない。
       霊魂が肉身を離れる瞬間、ただ一度だけ何故自分に煉獄があるかを悟るが、この瞬間が過去った後は決してわからない。もしそれがわかるとすれば、自我が起こって来る。故に彼等は神に對する愛のうちにとどまると共に、〔煉獄には過失がない故〕真の過失(あやまち)(1)によって、この愛の正道から踏みはづすこともあり得ないから、自分自身としての意志や欲望はなく、神に對する純愛を得ようとする意志が、ただ一つあるばかりである。
      彼等は神の命によって煉獄の火中にあるが、この神の命に服するのに、神に對する純愛を以ってするから、神の命と純愛とは一つのものである。そして彼等はもはや功を積むことがないから、罪を犯すこともなく、従って神の命から、萬事に於いて外れることもあり得ない。

       

      (1)継続的でなく、唯一度でもの意。

       

      (A) ここで聖カタリナは煉獄の霊魂は受けている苦しみの特定理由を想起することが出来ないと言っている。例えば「私は何月何日斯々の罪を犯したから此処にいるのである」と云うが如きである。がカタリナは彼等が耐え忍んでいる苦しみは、罪に對する罰に相当するものであるということを、彼等が承知していないと、絶対的に断言したのではない。何故ならば、このことを彼等が識らないと言うことは、想像し難いことであると共に、第八章の記述と矛盾して来る。即ち、「煉獄に於いて霊魂に苦しみを起こさせるものは、神の聖旨に叶わぬものを霊魂自身の裡に観ることであり、又その言い尽くし難き全善に対して、かかる罪を犯したことを意識することである」(八章)と。

       

       

      第二章


      煉獄の霊魂の歓喜。聖女カタリナは彼等が益々神を観つつあることを示す。その状態を語るのは難しい。

       

       天堂に於いて永福を享けつつある諸聖人の霊魂の歓喜(よろこび)を除いては、煉獄の霊魂の歓喜に較べられるいかなる歓喜も他に見出せないと思う。この歓喜は、神が霊魂に入り給う上に障碍となる凡ゆるものが焼き尽くされるに応じて、益々豊かに神が霊魂に入り給うから、日毎に増しゆくのである。この障碍(さまたげ)(B)とは罪の錆であり、これが煉獄の火に焼き尽くされ、こうして霊魂は神が入り給うのにふさわしい状態に自らをするのである。
      この状態は、覆いをかけた鏡と同じく、その鏡が太陽の光線を反射しないのは、太陽が照らさないのではなく、絶えず日光は輝いていても、多いがこれをさえぎっているからである。それで覆いがなくなれば、再び鏡は陽光に照らされ、この覆いがはくなるにつれて、鏡は照り輝く陽光を浴びるであろう。
       このように霊魂は、錆、即ち、罪に覆われており、この罪が煉獄の火によって徐々に焼き尽くされる。この錆が焼き尽くされればされるほど、煉獄の霊魂は彼等の真の太陽である神を徐々に完全に反射する(適合する)ようになる。彼等の歓喜は錆が落ちるにつれて増し加わるとともに、神の光線に自身を晒す。であるからその歓喜は時が充ちるまで(浄化が終わるまで)障碍(さまたげ)が少なくなるにつれて大きくなる。がしかし苦しみは減ぜず、苦しみの中にとどまっている期間だけが減じるのである。
       彼等の意志は、霊魂がもはや苦しみを苦しみとして認めることが出来ない限度まで全く神の命に満足し、神に對する純愛によって神の命と一致している。又一方、彼等の苦しみは非常なもので、もはやそれをいかなる言葉でも言い表せず、神が特別な寵愛によってそれを識らせ給うたのでなければ、いかなる知性を以ってしても、その苦しみの概念の片鱗すらもまとめることは出来ない。この苦しみの概念は、神の寵愛によって私に示されたものであるが、私にはこれを言い表すべき言葉がない。けれどもこれは、私の霊的視覚に残っていた。それで今出来るだけ、それを説明しよう。がしかし、主がその知性を啓き給うた者だけが、これを悟るのである。

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