大聖テレジアの霊的報告
2016.01.25 Monday
イエズスの聖テレジア(アビラの聖テレジア)の霊的報告 特殊な恵みについての報告
18 ある日念祷をしておりますと、主は常ならぬ知的示現の中で、恵みの状態にある霊魂のありさまをお見せくださいました。その霊魂とともに、至聖三位が在し、この神聖な伴侶(とも)がその霊魂に全地に対する主権を与えておられるのを私は見ました。このとき、「私の愛する人はその庭に入り、かれの木の実を食べる」という雅歌の句(注1)の意味を悟りました。次いで主は、大罪の状態にある霊魂のありさまもお見せくださいました。その霊魂は、ちょうど、すっかり目隠しされ、しばり上げられ、つながれていて、どんなに努力しても、見ることも、歩くことも、聞くこともできず、深い闇に沈んでいる人のようで、無力そのものの状態にありました。私は、こんな状態にある霊魂が哀れでならず、ただひとりの人の霊魂でも、そこから救い出すためなら、どんな苦しみも重くはないように思いました。私がこのとき見たことは、大へん言い表しにくいことです。しかし、私がそれを見たと同じようにそのことがわかったなら、あんなにも大きな善を失って、これほど大きな悪の中に落ち込むことに同意する人は、一人もいないにちがいないと思います。(注2)
一五七一年
(注1)= 雅歌5・1。
(注2)= 霊魂の城、第七の住居、第一章参照。
49 また別の日のこと、ご聖体拝領の直後に、キリストの聖なる御体が、私たちの魂の中で、どのように聖父に受け入れられるかを悟るお恵みをいただきました。これは、この地上でのことです。主の聖なるご人性は、私たちの霊魂にお住みにならず、神性だけがおとどまりになっているからです。私は神の三つのペルソナがそこに在し、聖父は、私たちが聖父にその最愛の聖子をおささげするのをこのうえなく喜んでお受けになることを見、また悟りました。
聖父はこのささげを、筆舌に尽くせないようなしかたでお受けになり、そのお返しとして、私たちを崇高なお恵みでお富ませになります。このほか、聖父は、祭壇上の犠牲を、それが大罪の状態にある司祭によってささげられる場合にも、お受け入れになることを悟りました。けれども、このばあい、司祭は恵みの状態にある霊魂が受ける恵みを受けられません。それは、天来の恵みがその力を失うからではなく、それを受けるべき人に心の準備ができていないからです。なぜなら、これらの恵みは、聖父がこのささげを受け入れられるというそのこと自体から生じるからです。太陽の光線が松脂に当たれば、ガラスに当たったときのように輝かないとしても、それは太陽が悪いからではありません。このことについていま私が述べた例によって私の考えをお分からせすることができたと思います。このことを知ることは大切です。ご聖体を拝領するとき、私たちの中には深い秘義があるのですから、このお恵みをたのしむのを、私たちの身体がこれほど邪魔するのは、残念なことです。
一五七五年 セビリャにて