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2017.01.04 Wednesday

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    死者たちの中の長子 つづき

    2016.01.22 Friday

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       このようにして、真理の御言葉と、また嘘を吐(つ)けない天使たちと、またすべてにおいてただその父、その子、その花婿の完全さにのみ劣る完全さを備えたマリアと、また彼が昇天するのを見た使徒たちと、また最初の殉教者ステファノと、また彼に次ぐ多くの人びとは、イエズスが死者たちの中の長子であり、人間として自分の肉と共に最初に天に入ったと、確認したのである。誕生の日は一人の義人が肉から解放された霊魂と一緒に至福の霊魂たちの仲間に加わることだと言われる。イエズスはその至聖なる人間としての誕生の日に、人間-神というその全資質、すなわち肉、血、霊魂、そして神性と共にそこに居を定めた。なぜなら完全な無辜の人であったのだから。
       しかし第二の死というものがある。すなわち恩寵が欠如している霊魂のそれである。厖大な数の義人たちは、幾百年、幾千年も前から贖罪が彼らを原罪から浄化し、自分の内に超自然の生命をもつ者だけが入れる神の王国の一員となるために彼らにそれを許してくれるよう待ち望んだのだった。しかしそれよりももっと、キリスト以後に生まれて来た厖大な数の人間たちが、意図的に行った重大な罪からの浄化を遂げるであろう時、あるいは完全極まりない正義が、良心の掟に基づいて、存在すると感じている神に仕え、礼拝し、こうして教会の魂の一部となって愛徳と正義をもって生き行動した者たちすべてに、天を開くであろう時を待ち望んでいる。
       すべての霊魂を創造し、そのすべてを恩寵へと予定した完全な愛徳である神が、その王国から、自分の責任によらずに受洗しなかった者を排斥するとは考えられない。彼らにどんな過ちがあるというのか? 自分から自発的にカトリック信仰の浸透していない地域を選んで生まれたのか? 死んで生まれる新生児には、洗礼を受けなかった責任が負わされるのか? 厳密な意味で『教会』ではないが、神から霊魂を授かられたのだからそれに属しているといえる人びと、死んで生まれてきたために無垢の死者たちであったり、あるいは自然の傾向によって善を行い正しい生き方をし、それによって至高の善を称え、彼らのうちと周辺にその存在を証言したこれらの人たちに対して、神が残忍な仕打ちをすることなどどうしてありえようか? いいや、ありえない。それが胎児であろうと生まれたばかりの命であろうと、原罪を取り除く洗礼の秘跡を授けるのを妨げ一つの命を抑圧する者に対して、神が与える情け容赦の無い峻厳な審判は、そうでないことを立証するものである。もし、これらの無垢の霊魂たちが、神から引きはなされたままで幾百年、幾千年もの間、罰をうけるでもなく、かといって神を見る喜びを味わうでもない状態に放置されるほど神は厳格だというのか? 万人を恩寵に向けて予定した、無限に善である存在が、自らの自由な選択の余地無くカトリック者でない人たちから、その恩寵を横取りするなどと考えられるだろうか?
       『天には我が父の家が数多くある』、とイエズスは言った。この世が消滅するであろう時、新しい世界、新しい天、そして永遠のエルサレムの新しい幕屋があるだろうし、理性をもつ全被造物は、義人であった復活者たちの称賛と共に神の永遠の王国の所有によって栄光化され、教会の魂とだけ一致していた人たちも天にその住まいを得るだろう、というのも、永遠に残るのは天国か地獄のみであろうが、また、愛徳が、それにふさわしくないこの被造物を永遠の責め苦のために地獄に落とすとは考えられないからだ。
       父の手に霊魂を返したイエズス・キリストは、アダムの代わりに、その至聖なる霊と共に、最初に、生命の王国に入った。ほんとうは天の民の一人としてそこに最初に入るべきであったのはアダムであったのに、彼はその背信により霊魂と共にそこに入るのに幾千年も待たねばならなかったし、霊魂に再結合した肉と共にそこに入るためには、それよりももっと長い幾千年を待たねばならないのだ。イエズスはそうではない。『大きな叫び』を上げ、その霊魂を父に委ねた瞬間、その神-人間の本性である無限の愛徳により、この上なく正義に貫ぬかれた彼の魂は、人類の過去・現在・未来のすべての罪を背負っていたが、霊魂の命である恩寵を失わせる原罪は負わず、彼の完成された生贄を通じてすべての罪を消滅するためにそれを負い、人のあらゆる霊魂と等しく、父から裁かれたのだ。そして父は、生贄の成就以前のように、『罪とはかかわりのないかたをわたしたちのために罪となさった』(第二コリント5・21)。けれどもそれがすべて成就されると、『神はこの上なく彼を高め、すべての名にまさる名を惜しみなくお与えになった。こうして天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものはすべてイエズスの名において膝を屈め、すべての舌は「イエズス・キリストは主である」と表明し、父である神の栄光を輝かす』(フィリピ2・9~11)。 裁かれると直ちに人間としてのその霊魂、完全の域に達していたその霊魂は、体に再び結合し、死んで生者となり、栄光の復活者、肉も具備した最初の栄光の復活者、霊魂と肉体において天に生まれた最初の人、復活者たちの初物、義人たちに対する復活の約束、彼が王であり、相続人の長子である王国の所有の証拠である生者となる瞬間まで、主のうちに喜び、主のうちに憩った。
       父の遺産、その子らのために彼が定めた遺産は常に長子に与えられた。またキリストの全兄弟たちはこの永遠の、聖なる、王的遺産に与るはずであったから、彼は彼の血そのもので書いた聖なる遺書をもって、彼らにそれを結び付けた。また父が彼に与え、彼がその兄弟たちである人びとに与えるために受けた王国における分け前を受けるように、自分を死に渡したのだ。遺言書は遺言を残した者が死んではじめて有効になるのだから(ヘブライ9・16~17)。
       多くの長子権による長子イエズスは、こうして父の意志に基づき、王たちの王、永遠の世紀の主として、最初に王国を所有するのである。この父は全能、アルファでありオメガ、初めであり終わり、力、知恵と愛徳である者、なすことをすべて知り、すべてのことをなし、善い目的に向って完璧に行い、そしてこのゆえにその御言葉を産み、時が来ると彼に肉を与え、したがって生贄として屠り、続いて復活させ、称賛し、釘で刺し貫かれたその両手に審判するあらゆる権力を与えた。ために、どれほどの者たちは彼を見、物質的にあるいは罪を犯して彼を侮辱し、彼を刺し貫いたかを見、繰り返しおのが胸を叩くことであろう。すなわち個別に受ける審判に際して、また審判主キリストの最後の出現に際して、このように定められたのだから、そうなるだろう。 

      マリア・ワルトルタ著 『― 世紀末の黙示録 ―  手記  抜粋』より
      死者たちの中の長子(黙示録1・5)。

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