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2017.01.04 Wednesday

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    死者たちの中の長子

    2016.01.22 Friday

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      マリア・ワルトルタ著 『― 世紀末の黙示録 ―  手記  抜粋』より

      付属文書 ヨハネの啓示(黙示録) 1950年

       死者たちの中の長子(黙示録1・5)。

       未熟な読者ならこの一節を読んで、或る種の混乱に陥り、或る種の疑問を抱き、その結果次のように問うかもしれない。「しかし、ここには間違いや矛盾はないだろうか。長子は恩寵の生命を最初に生きた長子アダムであり、それゆえキリストは『新しいアダム』、または、超自然的生活から堕落し、そのような状態のままキリスト生誕第三十三年までいた第一の人アダムを除外して、『第二のアダム』と呼ばれ、その子に先立って生まれ、恩寵満ち満ちていた彼の母マリアは、知恵の言葉により、神の長女と言われたのではないか?」。
       間違いも矛盾もない。
       アダムは最初の人間であるが、長子ではない。彼はどんな父からもどんな母からも生まれておらず、神から直接創造されたのだ。
       イエズスは、長子でもある父の独り子である。初めが無い神的思惟から御言葉は産出され、彼にも初めは無かった。したがって彼は、神のように絶対的長子である。また、マリア―彼女は知恵の書によって、また教会によって『長女』と言われている―から生まれたとはいえ、人間としても長子である。なぜなら、関与によるのではなく、直接の産出によって、父なる神から生まれたその素性によって、神の子らの真の長子である。すなわち、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたを覆うでしょう。それゆえお生まれになる子は聖なる者で、神の子と呼ばれます』(ルカ1・35)。
       したがって、たとえ彼に先立って母は『いと高き者の長女にして娘』(シラ書24)と歌われたとしても、また彼女がその座である知恵の書は彼女について『主はそのみ業の初めに、わたしをお造りになった。いにしえのみわざになお先立って。永遠から、わたしは定められた』(箴言8・22~23)、更に『わたしを創られた方はわたしの幕屋で憩われた』(シラ書24・12)としても、彼は長子である。なぜなら、たとえ母が格別な特権によって無垢であるとしても、限り無く純白で限り無く聖である子は、限り無く母を超越する絶対的長子なのだ。神なのだから
       彼女は、父の思惟が、人びとに恩寵をもたらすために、彼女によって恩寵が来ることを考え、定めた時から、また、彼女を恩寵で満たして創造し、彼女が母になる以前も、母となる間も、母となった後も常に彼女の内に憩ったその聖なる櫃を所有した父の選択による最初の娘である。実に、彼女は無原罪であったから恩寵に満ちていたし、恩寵によって受胎し、肉となった無限の恩寵は、彼女の内部で、彼女から人間の肉と血をとり、彼女の血と共に処女の胎内で育ち、ひとえに、彼女のわざによって、また聖霊の働きによって形成されたのだ。
       彼は、永遠の産出によって長子である。父は彼のうちに、未来の一切の物事を、まだなされていない物質的、霊的あれやこれやの一切の物事を見ていた。なぜなら父はその御言葉のうちに創造と贖罪を見ており、その両方とも御言葉により御言葉のためにもたらされることを見ていたからである。
       感嘆すべき神の神秘! 利己的愛ではなく、能動的で、極めて強力で、むしろ無限の愛で自分を愛する計り知れない御者は、このたった一つの完全無欠の行動によって、位格(ペルソナ)の区別においての他は彼、父とすべてが同等であるその御言葉を産む。なぜならもし神が一にして三、すなわち感嘆すべき唯一の存在であるならば、学識の浅い人びとには三つの面からこのようにわかりやすく説明できよう。三つの各々の面は、はっきり区別される信仰の真理であり、すなわち神学的に唯一の神であり、神性、永遠性、計り知れなさ、全能により、すべてにおいて同等である三位格だ。三位格の間には混同は無く、また一位格は他の位格ではなく、だからといって三神ではなく、唯一の神は自分ひとりで子を産み、したがって自分を産み、聖霊の発出の原因となることによって、神的位格の各々に存在を与えるのだ。
      神、すなわち力は、すべてを見、知恵によって、聖霊である愛徳によって行い、最も偉大なそのわざを成し遂げる。そのわざとは、御言葉の産出と受肉、人間の創造と神格化、マリアを原罪から保護すること、その神的母性、堕落した人類の贖罪である。すべてを見、知恵によって、すなわち、万物が存在する以前から在って在るものによって行うのであるから、全面的な権利をもって自分は『長子』だと言うことが出来る。
       太古から存在し、神が宇宙に置こうとした各々の形態と性質においてその生命を生きている宇宙が存在していなかった時、彼、父の御言葉はすでに存在していた。生命が無かったがゆえに、死んでいるかのように存在していなかった万物は、彼によって創造され、こうして『生命』を得た。御言葉は、すべての要素が無秩序に、徒(いたず)らにのたうっているカオスからそれらを引き出した。御言葉がすべての事物を整備すると、すべては役立つ生命力をもち、こうして可視的な感知しうる宇宙は、完全な知恵の法則と共に、愛の目的と共に存在した。
       なぜなら、何一つ愛の目的無しに、知恵の法則無しにはつくられなかったからだ。水盤に集められる水滴から、光と熱を与える天体を形成するために集められる微分子まで、あの動物たちを養うために予定された植物的生命から、その動物たちを利用し楽しみ、その動物的、理性的完全さにより、何にもましてその内部に封印されている不滅の部分、永遠者そのものの息吹は、神を歓呼し、神の歓喜のもととなるために―なぜなら神はその子らを見て歓喜するからだ―その根源に帰るべく予定されている、創造の傑作である人間に至るまで、すべては愛のためにつくられているのだ。もし常に忠実に呼応されていた愛なら、死や苦しみが神の愛について人間に疑いを抱かせるのを許しはしなかったろう。
       死。神によってつくられた多くのものの中に死はつくられなかった。また苦しみはつくられていないし、死と苦しみの原因である罪はつくられなかった。この上もなく美しい宇宙にそれを置いたのは敵対者なのだ。また、敵から、憎しみから堕落させられるままになった宇宙の完成、人間によって、まず恩寵の死が、次いで肉の死がもたらされ、そして、アダムとその連れ合いのうちに、またこの人祖からすべての子孫のうちに、恩寵の死の結果として、すべての苦しみと心身の疲労が生じた。
       それではどうしてアダムの子孫である女から生まれたイエズス『死者たちの中の長子』だと言えるのか? たとえ神的受胎によって母は彼を生んだとしても、その母は、義人であったとはいえ二人の男女、すなわちアダムから一人ひとりの人間が受け継ぐ原罪により、超自然的生命を欠き、罪に汚れている二人の男女から生まれたのではないか? これぞ多くの人の異議申し立てである。
       その出生からイエズスは二重に『長子』である。なぜなら、すでに超自然的に生きる子らを生めなくなっていたアダムに長子が生まれた時、存在することによって、人がまだ生まれていなかったように生まれたからだ。アダムの子らは、両親がすでに堕落し、三重の色欲にまみれていた時に懐胎され、超自然的生命に対して死んで生まれてきた。そしてアダムとエバ以降、どの父親もどの母親もこのように出産してきた。
       二人共に勝れて義人であったにもかかわらず、アンナとヨアキムもまた、このように出産したのであろう。彼らもまた受け継いだ罪から損害を受けていたし、彼らは単に人間的な普通の在り方でマリアをもうけたのだから。神の母になることを予定されていたマリアの誕生における希有の出来事といえば、処女の、原罪の汚れから守護された霊魂の、男と女から生まれた万人の霊魂の中で唯一、無原罪であったその霊魂の、未来の使命の観点から神が与えられた特異な特権による注賦(ちゅうふ)だけであった。
       それに反して、エバ以降、どんな女も知らなかった恩寵に対する忠実さを知っていたマリア、最小の小罪どころか、その完全な無辜(むこ)の状態、その完全な均衡を妨げるような最小の嵐さえも知らず、ために、ちょうどアダムとエバが誘惑者の誘いに負ける以前にそうであったように、知的能力はそれに劣る部分を支配し、霊魂は知的能力を支配していたマリアから生まれたキリストは、霊的に侵されておらず破られていない胎内から生まれた長子である。はたまた、キリストは物質的に侵されておらず破られていない胎から生まれた長子である。なぜなら彼女は母とした者として、彼女から生まれた者として神であることにより、したがって扉を開くことなく、あるいは岩を動かすことなく出入りする霊という自らの賜物の持ち主として、神は人性をとるために彼女の胎に入り、救い主としてのその使命を始めるために、諸器官や筋肉を傷つけずそこから出た。
       こうして、長子、卓越した人間、恩寵に死んでいた一切の死者たちに再び生命を与えるであろう者は、唯一、恩寵の充満から生まれた。二人の肉の飢えによってではなく、恩寵のうちに生きることを維持していたならば人の子らが有していたであろうような在り方で生まれたのだ。五官の欲求ではなく、恩寵のうちに生まれてきた者が奉献する神に対する聖なる愛と、伴侶に対する悪意の無い愛は、神から義務づけられた、獣性により腐敗していない愛のみを成長させ、倍増させるべく秩序立てられねばならなかった。
       この命令に違反されると、新しいアダムを再創造するために、神はそれを汚れ無き女によって形造られねばならなかったが、驕り高ぶって神のごとくなろうと欲したあの泥をもってではなく、ひたすら、超純潔、これだけでも御言葉の母となるに値するほどの超謙遜が提供する不可欠の要素をもって、新しい人を形造ろうとした。
       そして死者たちの中の長子は、闇に横たわる死者たちに光をもたらすために来た。地球上にまだいた者たちであれ、天の門を彼らに開く贖罪を待ちつつすでに冥界に集まった者たちであれ、死者たちに恩寵への生命をもたらすために来た。また、肉も共に生きて天に帰らねばならない者たちのためにも、彼は長子であった。汚れ無く、受けた恩寵に忠実な女から生まれた彼のために、ほんとうに満ち満ちる宝を、宝の持ち腐れにせず、それどころかすべての動きと霊感に対するマリアの完全な対応による恩寵の持続的増加と共に活発にそれは用いられ、ただそれだけで、アダムの、またアダムとその伴侶のせいで、万人に共通に与えられた『おまえは塵に返る』という罰は適用されなかったろう。
       一点の罪の汚れも無かった彼女も、人間共有の罰から免れることにより、また、御言葉を安置する櫃であり、神的芽に、人間-神を形成するにふさわしいすべての要素を与える土地である肉が腐肉になったり塵になるのは適していないので、神の母も塵には返らなかった。したがって、死から肉と共に復活した長子はイエズスのみであり、いつまでもイエズスのみである。彼は、父の意志に対する完全な従順ゆえに、この上なき辱めを受け、完全な生贄になった後、否定し難いその復活をもってこの上なく栄光化されたのである。なぜなら皆が皆彼の友人たちではない多くの人が、彼の栄光化された体を見、それだけでなく、彼が天使たちの敬意を受けながら天に帰るのを見て、この二つの事実を証言することになるからである。『なぜ、あなたがたは、生きているかたを死人の中に探すのですか? そのかたはここにはおられません。復活なさったのです』(ルカ24・5~6、マタイ、マルコの並行箇所)。復活者はあまりにも美しい変容を遂げていたので、マグダラのマリアは、彼が自分だとわからせるまで、彼を見分けられなかった。さらに使徒言行録(1・11)にはこう記されている、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか? あなたがたを離れて天に上げられたあのイエズスは、天に昇るのをあなたがたが見たのと同じありさまで、またおいでになるであろう』と。

      * 神は死をつくらなかった。(知恵の書1・13)

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