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    第十四章 教会側とマスコミ  ③

    2015.12.31 Thursday

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      『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』 より (安田 貞治 神父著 エンデルレ書店 発行)
       第十四章 教会側とマスコミ

       温泉にて
       姉妹笹川は、生来病弱で、少女時代から年に数回はあちこちの湯治場めぐりをしたものであった。こんど奥原医博のすすめで送られた矢立温泉も、馴れた古巣のごとく、傷ついた心身をあたたかく迎え入れてくれるものとなった。
       人里はなれた山奥で誰にも知られず、宿主の恩情にのみ見まもられて、静かに過ごす孤独の日々は、卓効ある温泉とともに、大きな救いをもたらした。もっとも、祈りひと筋の修道生活を求める者としては、毎日のミサもなければ御聖体もないさびしさは、何にまぎらわしようもないものであったに相違ない。
       長上である伊藤司教も、三ヶ月の滞在中に三回ほど、日帰りで見舞われたのがせいぜいであった。私も月に一、二度、百七十キロの道のりを電車とバスを乗りついで御聖体を持って訪ねる程度であった。そのたびにキリストの御受難を話題にとり上げ、精神の支えとするよう、すすめた。彼女もその黙想に力づけらえている、と答えた。
       ”精も根もつきはてた”と先にみずから表現したこのたびの試練が、どれほどのものであったかを理解するために、彼女のおかれていた状況をあらためて見直しておきたい。

       たかが一日 ”洗脳” されたという程度のことで…と考える向きもあるかもしれない。だが元来、修道院の共同生活を人並みにおくるのが精いっぱいの体力でしかなかった。しかもこの時は、五月二十一日に母を亡くした直後であった。すでにこの年・一九七六年の始めに、最愛の父の死に遭った。こんどは母…苦労をかけ通した母、虚弱に生まれ、大病、十一回の大手術、二回の臨終の秘跡などで心労を負わせつづけた母、との永別であった。悲嘆の重きは弱い身体をうちひしぐものであったに相違ない。
       その悲哀の底からいきなり東京へいわば引き立てられ、(もちろん家族は反対したが)エバンジェリスタ師の前に出頭させられたのである。なお、身近にくらすわれわれもつい忘れがちなのだが、当時彼女はまだ全聾の状態にあった。耳が全く聞こえないということは、不自由などという程度のものではないらしい。一切の音が消失している不安は、どんなものか。背後から危険がなだれ落ちて来てもわからないのである。覚えた読唇術とカンの良さで、日常生活を破綻なくこなしていたが、神経の休まることはなかったのではないだろうか。
       エバンジェリスタ師の前に置かれるや、たてつづけの説諭となる。達者な日本語とはいえ、外人の唇を読み解くには、相当緊張がつづいたであろう。しかも、思いもよらぬ超能力とやらの持ち主と決めつけられ、多くの人を欺いたとの宣告を延々と聞かされる。神と人への奉仕にのみ喜びと生き甲斐を見いだしていた者にとって、この痛烈な打撃は、張りつめた気力でもこたえて来た生命力の根底を衝くものであった。髪の毛の逆立つほどの恐怖から疲労困憊におちいったのも、無理からぬことと思われるのである。
       桜町病院の三週間も、静養よりは心身の煩わしい検査に明け暮れた。ようやく帰途についても、飛行機の着陸時の衝撃が弱い内臓にひびき、車椅子ではこび出される、という有様で、まったく試練に次ぐ試練の日々だったのである。
       そういう姉妹笹川に、矢立温泉の静寂は、何よりの安らぎをもたらしたようである。私の見舞うごとに、少しも淋しくない、と洩らし、”御受難” の話に力を得る、と言いながらも、べつに沈痛な面持ちを見せることもなかった。もともと人なつこい性格なので、宿主一家や湯治客たちとすぐに仲よくなったらしい。
       何よりのたのしみは、山の小鳥たちの訪問だった、という。窓のふちに菓子のかけらをならべておくと、次々と食べに来る。指先からもついばむ。腕や肩や頭にまでとまる。警戒心のつよいセキレイまで遊びにくるので、宿の人びとの評判になった。

        なお、一方で”守護の天使”の訪れも、エバンジェリスタ師の「もう現れることはない」との断言にもかかわらず、つづいていた。たびたび傍らに姿を見せて、優しい微笑をもってはげまし、時にはロザリオをともに唱えられた、という。
       こうして三ヶ月が経ち、さわやかな秋風とともに、体調もおもむろにととのい、修道生活に復帰できるようになったのであった。

       摂理のままに
      姉妹笹川は前の生活にもどったが、修院内の空気は以前と一変していたことは先に述べた。姉妹たちは、あれほど感銘を受けた聖母像のふしぎも、”超能力説”で片づけられてしまえば、対応の仕方にとまどい、おちつかぬ精神状態にあった。当然、”張本人”と名ざされた姉妹笹川に前と変わらぬ親愛を示すことはむずかしかったであろう。
       私自身は、聖体奉仕会報に、聖母像に関する出来事を相変わらずとり上げ、事あるたびに報告し、こうした不思議な現象は神のはたらきかけによるものではないか、と素直な受け取り方を暗にすすめていた。
       しかし、先の一九七六年五月一日の聖母像の涙の詳細を発表した時点で、伊藤司教から「このような報告は誤解を招くおそれがある。今は調査委員会にすべてをゆだねたから、調査の結果が出るまで沈黙を守ってほしい」との忠告を受けた。それ以後、しばらくはこの問題に一切ふれず、身辺雑記的なことを書きつづることにしたのであった。といっても、とくに印象的な事柄については、例外としてちょっとふれずにいられなかった。たとえば、韓国から一老婦人の訪問のあった際、聖母像から久しぶりに芳香がつよく感じられたこと、またこの婦人の話によれば、韓国では湯沢台の出来事はひろく知られ ”秋田の聖母の涙” という本はすでに二万部も売り切れ、信者は皆この奇跡を信じ、巡礼に来ることを夢みている、ということなどである。
       もっとも、聖母像の涙は、”調査委員会” が組織されて以来、ピタリと止まって、一度も流れることはなかった。そこで私は、涙の現象も終わったものと考えるようになっていた。
       調査委員会は、二年後の一九七八年に調査の結果として、秋田の聖母像の現象に関し、その超自然性について否定的結論を出した。が、そのくわしい内容は、私たちに全然知らされなかった。
       かねて、伊藤司教は姉妹たちとの会合で、委員会の結論が出たら、一も二もなく従順にそれに従うように、とさとされていた。ひとりの姉妹が ”自分の良心にそむいても、なお従うべきであろうか” と反問したところ、”この場合はともかく従うことが大切である” との指示であった。
       しかし、いざ司教自身が否定的結論を受けてみると、それを公表するまでには踏み切れず、良心にただならぬ動揺を感じられたようである。一九七九年伊藤司教は、ローマの教義聖省をみずから訪れ、これまでのいきさつを述べて、教皇庁の判断を仰ぐことにした。それに対し当時の教義聖省長官フランジョ・シーパー枢機卿(Chardinal Franjo Seper)「もし納得のいかない結論ならば、自身で再調査委員会をつくって、もう一度調べたらよい」との勧告が与えられた。
       姉妹笹川の日記がエバンジェリスタ師によってコピーを取られたことは前述したが、第一次調査委員会は、その日記のみを検討して、全面的否定の結論を出したのであった。委員のだれ一人として(エバンジェリスタ師のほかは)実地に湯沢台を訪ね、聖母像を検分し、姉妹たちの生活にふれ、その精神状況をさぐるだけの労をとることなしに、下された断定である。日記以外に何も見る必要はない、とは驚くべき安易な責任の果たし方である。第二次調査委員会が伊藤司教の委嘱(いしょく)によって一九八〇年五月に発足するにいたり、先の調査の結論が当然明るみに出されたわけで、私は以上のいきさつを知って唖然としたのであった。又、第二次調査委員会の検討において、シスター笹川の精神鑑定を行った医師は「思考の進み具合に支離滅裂がなく、観念奔逸もない。強迫観念あるいは思考内容の異常である妄想は存在しない」と鑑定文書に書いている。この文書は、後に伊藤司教がラッチンガー枢機卿に送った一九八二年三月の報告書においても引用されている。ただ、今は調査委員会の問題に長々とかかわっている場合ではないので、いずれこの件に関しては、しかるべき折りに詳述したいと思う。

       この第一次の結論を待っていた二年もの間、修院内の生活は以前同様につづいていた。   
       私は自分なりに検討をつづけつつ、ことの超自然性をみとめる方にますます傾いていた。
       その間も人びとは引きつづき、”お涙の聖母像” の膝もとで祈ることを求めて、少人数ながら各地から来訪していた。 

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