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    第十四章 教会側とマスコミ

    2015.12.30 Wednesday

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      『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』 より (安田 貞治 神父著 エンデルレ書店 発行)

      第十四章 教会側とマスコミ

       一九七六年五月十三日
       五月十三日といえば、カトリック信者の間では、先にポルトガルのファチマに聖母が出現された記念日として知られている。
       この日たまたま湯沢台に、カトリック・グラフの編集者山内継祐夫妻が訪問、聖母像のお涙を親しく目撃するということが起こった。
       すでに一年半前からカトリック・グラフは”秋田の聖母像”に関する記事を独占的に報道していた。いくつかの週刊誌もこれを追い、二、三のテレビ会社も取り上げて放映するようになった。こうして世の注目を集めはじめると、かえって国内のカトリック新聞雑誌は目をそむけ、意固地に黙殺の態度をとった。私自身はカトリックの報道機関を通じて正しい情報を提出し、適正な判断をもとめたいと願ったが、ことごとく拒否された。そこでカトリック・グラフの編集者たちの革新的報道方針の熱意を頼みとして、これまでの資料を提出したのであった。
       この珍しい報道は、グラフの読者層を一時ひろげたが、一方反対者の怒りも買ったようである。山内氏は「聖母像の出来事を取り上げて以来、われわれの仕事は危急存亡の瀬戸ぎわに立つことになった」と私にたびたび述べていた。
       その彼が、五月十三日にはからずも自身の目で聖母像の涙を確認することとなった。その報告記事には、まずそれまでの苦しい心境の告白が述べられている。
       「(聖母が)メッセージを広く伝えよ、と命じられたと聞いて、グラフではすべてを書きました。私たちとしては、この使命ゆえにこそグラフが刊行され続けているのではないかとさえ思っています。そうでなければ、司教団首脳にきらわれ、資産の乏しいグラフが、今日まで生き続けることは出来なかったかもしれません。それにしても、一連の出来事のために修道院とグラフが浴びている批難は、小さくありません。ことに、私にとってはもう、耐え切れない重荷になってしまいました。…」
       山内氏はなおも次の号のために、先の五月一日と二日の”お涙の現象”の目撃者たちの座談会も企画していた。重荷によろめく心境で秋田にたどりつき、御像の前にぬかずいた彼は、にがい思いを聖母に訴えかけずにいられなかった、という。
      「カトリック社会に何とか真の報道機関を、と願って、私は肩ひじ張って来ましたが、もう疲れました。まったく余力がありません。これまで毎月の経済的危機を乗り越えられたこと自体、あなたのお取り次ぎによる奇跡だ、と私は思っています。その恵みには感謝いたしますが…。予定される目撃者の座談会だって、しょせん誰が何を見たかを伝える形式のもの。もし出来事が真実なのなら、私にもお見せください。そうすれば私はグラフに一人称で胸を張って書くことが出来るではありませんか。…といっても、涙を出すとも出さぬもあなた次第ですね。ま、あなたのお望みどおりなさってください。とにかく私は、もう疲れました」


       神の答え

       山内夫妻は夜行で上野を発ったので、湯沢台に着いたとき、私たちはすでに朝食をすませ、聖体礼拝も終えていた。
       山内氏の報告を追ってみると―まず聖堂の入口で夫人が聖水入れを指さし”いい香りがするでしょう”という。”べつに…”と答えると、彼女は聖水に浸した指先で何度も十字を切りながら”ほんと、今度は香らないわ”と首をかしげていた。
       午後、彼ら二人はひと気のない聖堂に入った。彼が何気なく祭壇右のマリア像に目をやると、顔ばかりか全体が白々と輝くように見えた。午前に見たときは黒っぽい顔だったと思いだし、”オーイ”と夫人に呼びかけておいて、自分は聖母像に歩み寄った。
      「私はマリア像に近づき、像の顔から三十センチ、いや十センチくらいの位置で観察しようとした。その鼻先に、水滴が光っていた。水滴は大粒で丸く、像の右頬に止まっている。右目が濡れて光り、下まぶたから水滴まで一筋の水跡がついている。…一歩退いて像を見たまま、出てるぞ、と私は言った。”恐い”と叫んで妻が私にすがりついた。私は像から目を離さずにいたが、頭の中では様々な思いが交錯した。…」
       彼は冷静を取りもどして”天使祝詞を唱えよう”としたけれども、声の震えをどうしようもなかった。彼がゆっくりと唱えはじめたとき、夫人は声を上げて泣きだした。(彼は生まれてこのかた、初めて無心に祈れた、といい、神がすぐそばにおられることを実感した、と付言している)
       やがて彼が私の部屋にとびこんで来て「いま、涙が出ています」と告げたので、私もすぐ聖堂におもむいた。
       この日ちょうど秋田教会の婦人たち二十名が、一日黙想のため来訪しており、知らせに全員集まって、御像の涙の目撃者となった。私は例によって先唱してロザリオ一環を一同と唱えた。祈りが終わったのちも、聖母像の木肌の涙にぬれた部分が赤く染まっているのが目についた。
       山内氏の記事はこう描写している。
      「ロザリオの祈りが一環の終わりに近づいたとき、像の胸元の濡れがすうっと消えていった。あ、涙が消えてゆく、消えてゆく…と思っている間に、絵にかいたような消失ぶりである。そのとき私の位置からは、頬の涙やアゴの涙は確認できず、胸元のにじみの変化だけが鮮やかに目に映った」
       そして”現象”が終わったあと、彼は「これが神の答えだな」と確信し、苦しくとも辛くともグラフ刊行を続けよ、との神の意志を感じ取ったという。
       こうして、カトリック・グラフはその後数年間は発行をつづけたのであった。


       増大する試練

       このようにカトリック・グラフが”秋田のマリア像の涙の出来事”を確信をもって大々的に報道するにつれ、反対と否定の声も四方から高まってきた。
       当事者のうちでも最高の責任者である伊藤司教は、騒ぎをそのまま傍観していたわけではない。すでに一年ほど前、神学者の中でもマリア神学の研究で知られるエバンジェリスタ神父に依頼して、ことの真相を究明するようはかっていたのである。そこでエバンジェリスタ師は湯沢台を訪問、姉妹(シスター)たちと会い、姉妹笹川を観察したついでに、彼女の日記を貸してほしい、と申し出た。彼女はそれを私に告げに来て、どうしたものか、とたずねた。あちらの言い分では、安田神父の記事は良いことばかり取り上げ、悪い方面には少しもふれていないので、正当な判断のための資料とならないから、とのこと。そう聞いて私はしばらく考え、何も隠しだてをすることもない、真偽をたしかめるため必要とあらば、日記をそのままお貸ししなさい、と答えた。
       この日記はエバンジェリスタ師によって完全にコピーされ、一年後に彼女に返された。これを証拠資料のように用いて、姉妹笹川は異常性格者、超能力所有者に仕立て上げられたのであった。
       この烙印によって決定的となったおそるべき試練は、姉妹笹川の上に、ひいては彼女をめぐる人々の上に、十年間、すなわち一九八四年の復活の祝日、教区長伊藤司教の公式書簡によって、事実の超自然性がみとめられるまで、つづいたのである。

       

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