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    聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ 第十章 夢の幻視

    2015.09.13 Sunday

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      『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』 より (安田 貞治 神父著 エンデルレ書店 発行)

      第十章 夢の幻視

       前章の、耳の治癒に関する九月二十一日の天使の予告の中で”今朝話題になった”云々と指摘された姉妹(シスター)笹川の夢は、約三ヶ月前に彼女が見た”夢”を指すものだが、単なる悪夢と片づけられぬものがあるので、本章で一応取り上げておきたい。
       一九七四年六月十日(月曜)の朝、六時からのミサのため司祭館から聖堂に向った私は、二階に並ぶ修室の一つの窓に布団が干してあるのに気づいた。早朝にこれまで見かけぬ干し物なので、目を引かれたのであった。だが、べつに問いただすほどのことでもなし、そのままミサを挙げ、朝食、礼拝といつもの午前中の日課をすませた。
       昼食のとき、ひとりの姉妹から、姉妹笹川の見た恐ろしい夢、という話題がもちだされた。興味を引かれて私がその委しい話を求めると、彼女は恐るおそるという感じで語りだした。
      「今朝ひどい迫害を受ける夢を見て、目がさめてもしばらく動悸がおさまらないくらいでした。私の前に大勢のそれぞれ宗教家とおもわれる一団が立っていました。それを率いる頭のような、ねずみ色の服のカトリック神学者とみえる外人が進み出て、私にこういう言葉をあびせかけてきました。
      『三位一体の神がなぜ唯一であるのか。われわれはキリストが神であると信じることはできない。カトリックの教えの山はどこにあると思うのか。おまえが神を信じ、神に仕えるものであるなら、なぜわれわれと同じく、八百万(やおよろず)の神々を神とみとめないのか。神を信ずる者だというなら、われわれ同様に、八百万の神々を信じろ。そうすれば、われわれも皆でカトリックになろう。われわれの仲間になれば、われわれのように面白おかしく人生をたのしんで生きられるものを。お前たちは好きこのんでそのような生活をしている。そんなお前を見るのがかわいそうだ。いまお前ははっきりと、三位一体の神が唯一の神ではない、八百万の神々も神と信じる、ということを、われわれの仲間に言ってくれ。でなければ、この苦しみを受けよ!』
      そういって杖のようなものをふり上げましたが、見るとそれは大きな蛇で、私の体に巻きついてきました。恐ろしさに声も出ないほどでしたが、必死に答えました。
      『三位一体の神だけが唯一の神です。そのほかにいかなるものも神と信ずることはできません。キリストが神である、と信じられないなら、カトリックになることはできないでしょう。カトリックの山は、キリストが神であり、人である、ということだと思います』
      すると相手は
      『キリストが神だというのか。いや、われわれはそれを信じることはできない。お前たちはキリストの復活を信じて、カトリックになったのであろう?』
      と念を押すので、
      『はい、その通りです。そしてキリストが神であり人であることを信じて、カトリックになりました』
      と答えると、蛇が一段と強く巻きついてきて、身動きもできなくなりました。蛇はときどき赤いするどい舌をチロチロと出しながら、その口を私に向けて寄せてきます。恐ろしさと身を締められる苦しさで、あとは同じ質問をくり返しなげかけられても、答える元気もなくなってきました。ただ夢中でロザリオを握ってその祈りを唱えていました。蛇が赤い舌を顔に寄せてくる時だけは、ロザリオをふり上げて追いはらっていましたが、その力もだんだん弱ってきました。助けを求めて見回すと、右側には仲間の姉妹たちが並んでいます。どう助けることもできず、ただオロオロしているのが、手にとるようにわかります。眼が合うと『わたしたちがついてるから、がんばってね』とそれぞれの眼差しがいうだけです。日ごろたよりにする長上も皆そろってお姿が見えるのに、だれからも救いの手は伸ばされません。もう疲れはてて、蛇の頭をはらいのける力もつき、祈る声も出なくなったとき、ふいに安田神父様が目の前にとび出して来られました。
      『聖父と聖子と聖霊の御名によって、アーメン』と大きく十字架の印をしてから『彼女の言うように、われわれは皆、三位一体の神が唯一の神であると信じている。それを信じることができない者は、カトリック信者になってもらわなくてもよい』と声高くおっしゃいました。すると、まず左側の気味わるい一団の先頭に立って私を責め立てていた頭分が、たじたじとなって退き、つづいて私に巻きついていた蛇も離れました。ヘナヘナとくずれおちた私をようやく姉妹たちが助けに来てくれました。私は神父様にお礼をいう力もないほど、弱りきっていました。汗がふき出るように流れるけれど、それをぬぐう気力も出ないでいると、守護の天使が現れてふき取ってくださいました。そこで目がさめたのですが、実際に全身が汗びっしょりでした。ああ、夢でよかった、と起き上がろうとしましたが、胸がまだ締めつけられるように苦しくて、すぐには起きられませんでした。手足もつめたくなっているし、隣室の姉妹を呼ぼうとおもっても、喉が締められたなごりで声も出ません。枕もとの時計をみたら、午前四時半を過ぎたところでした。
       やっと起き上がってみると、ねまきはもちろん、ふとんまで体のかたちに汗が滲み通っています。それで、まだ陽も出ていないけれど、窓に干したのでした。
       お聖堂に行っても、祈りのうちにも夢がまざまざと浮かんでくるので、一心にお助けを願いました。共同の祈りになっても、まだ体に力がなくて、声がでませんでした。この夢の話はだれにもしないつもりだったのに、あまりにもおそろしかったので、つい隣席の姉妹に、こわい夢をみた、と口をすべらしてしまいました。どんな…と聞かれましたが、朝食中だったので、あとで、とことわりました。食後、お礼拝のあとで、その姉妹が私の部屋までわざわざ聞きに来たので、一部始終を話しました。そしたら『こわかったでしょう。ほんとに、ふとんはまだ濡れている』と、おどろかれたようでした。
       それで、いま、神父様にも判断していただくように、この話題を持ち出されたのだとおもいます」
       という報告であった。
       聞き終わった私は、姉妹一同の物問いたげな表情を見まわしながら、ただの悪夢とは思えない、と前置きして、自分なりの解釈を述べてみた。―
       これは笹川さんだけに関する事ではない。現代の教会の姿、その動向をも暗示しているように考えられる。教会は、宣教の旗じるしのもとに、次第に異教、多神教への接近をこころみる傾きがみられる。同時に、他宗教と妥協する傾向をたどり、信仰の生き方を、この世的に考えて比較的楽な方向に向けて行く。現在すでにそのような安易さへの迎合が、教会の指導層に見えてきている。そういう風潮に流されぬように、私たちも心をひきしめて、神のみ言葉を誠実に守る使命につくさなければならぬと思う。…
       この意見を姉妹たちはうなずいて聞いていたが、中には、たかが夢に過ぎないことを…と、まじめに受け取る気にならない者もいたようであった。ともかく、これで一場の夢ものがたりとして、けりがついたかたちであった。
       
       ところが、その夕方のことである。晩の聖務に先立つロザリオの終わったとき、姉妹笹川があわただしく寄って来て「神父様、となりのへやに蛇がいます」と告げた。立って行き応接間の戸を少し開けてみると、奥の壁ぎわに大きな蛇がとぐろを巻いている。姉妹たちも背後から目にしたらしいので、私はまず一同を落ちつかせるために、今は祈りの途中であるから続けるように、と命じて戸をしっかり閉めた。やがて晩の祈りの終わったところで、蛇を応接間から玄関口へ追い出し、戸外で始末したのであった。
       あとから姉妹笹川の説明によると「ロザリオの終わりに、”いと尊きロザリオの元后、われらのために祈り給え”と唱えているとき、守護の天使が現れて『いま隣りのへやに蛇がいるから、神父様に伝えなさい。あなたの夢の話をかるがるしく聞いた人があるので、それを正すためです。神父様がよく導いてくださるでしょう。』と言って姿を消されました。おどろいて、先唱をちょっとやめて、境の戸をそっと開けてのぞいてみたら、夢に見たと同じような大きな蛇が丸くなって鎌首をもたげて、舌をチロチロ出しているので、いそいで神父様にお知らせしたのです」ということであった。

                *          *         *

       これは今から思えばもう二十五年前の、一つの悪夢とそれにつらなる出来事であるが、あらためて吟味すると、いろいろな警告がふくまれているように思われる。さらに、近い将来にあてはまる重大な示唆がみとめられるようである。
       姉妹笹川を責めたてた神学者めてた頭目の言い分を、とり上げてみよう。
       その第一は、三位一体の神がなぜ唯一の神なのか、という詰問である。天地創造の神を信じてきたユダヤ教にしても、神は唯一とみとめても、三位一体の秘義は知らなかった。この三位一体の秘義の啓示を受けなければ、イエズス・キリストが唯一の神の子であることも、信じることはできないわけである。迫害者は「われわれはキリストが神であると信じることはできない」と宣言しているが、この問題は今に始まったことではなく、唯物論の抬頭と科学主義時代の幕明きと同時に、人間精神を揺すぶってきた課題である。今や教会の中にも、多種多様の形で婉曲な唯物思想やヴェールをかぶった無神論が入り込んでいることは、蔽(おお)いようのない事実である。
       この夢では、ひとりの神学者が唯物思想をもって、戦いをいどんでいるが、これはまた現代精神の滔々(とうとう)たる趨(すう)勢を、表徴しているごとくである。
       彼の主張によれば、八百万の神々、すなわち昔から日本にあった在来の神々を信じれば、われわれも皆カトリックになる、という。これは妥協による容易な福音伝道をめざす、安易な宣教活動の態勢と合致するものである。
       結論としては「われわれの仲間になれば、人生をおもしろおかしく、楽しく生きられるものを」と憐れむごとく誘いをかけ、信仰を現世的生活の享楽の補充とさえしているのである。つまりは、この世に生きる人間生活が大事なのであって、崇高なる神の次元に結びつく超自然の生活を否定するのである。
       ここに、たかが夢の話として軽視できぬものを、私は感じとったが、実はやがて彼女の受けるべき試練の前知らせのようなものであったと思われる。そのような意味がふくまれる故にこそ、天使が先の治癒の予告にさいして「今朝の食卓での夢のことが話題となったでしょう。心配することはない」とわざわざ言及されたのであろう。そして、夢を軽んじた者のために、現実に蛇を目に突きつけて、反省をうながされたのであろう。

      つづく
        

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