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2017.01.04 Wednesday

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    62 イエズスとユダ、ヤコボの先生マリア

    2017.01.04 Wednesday

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      あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『聖母マリアの詩』上より

       

      62 イエズスとユダ、ヤコボの先生マリア(1)

       

       食事をとったり、マリアが機織りや針仕事をする部屋を見る。隣りの部屋は、ヨゼフの仕事場であるが、そこから勤勉な働く音が聞こえる。その代わりに、ここには全くの沈黙がある。マリアは、自分で織った羊毛の細長い布を縫い合わせている。幅はほぼ一メートル半、長さはその二倍で、ヨゼフのマントのために使うつもりらしい。菜園に面して開いているドアから、空色がかった紫の、小さなマーガレットのような花が咲き乱れている塀が見える。私は、その正確な名前を知らない。それを見れば秋のようであるが、木々は、まだ緑が濃く美しく、太陽のよく当たる壁についている二つの蜜蜂の巣から、蜜蜂はいちじく、ぶどうの木、割れている実で一杯のざくろの周りをブンブンと飛び回っている。
       木々の下に、イエズスは、ほぼ自分と同じ年ごろの二人の子供と遊んでいる。二人はちぢれ毛であるがブロンドではない。むしろ、一人は小麦色である。色の濃い小羊のような頭で、まん丸い小さい顔は皮膚の白さを目立たせ、紫がかった水色の大きな、非常に美しい目をしている。もう一人は、それほどちぢれ毛ではないが、色は暗い栗色で、目も栗色、顔色はもっと濃い小麦色であるが、頬はうすいバラ色をしている。小麦色の二人の中に、全くブロンドの小さい頭をしているイエズスは、もはや光輪のかかった感じがする。三人は仲よく遊んでいる。小さな車にさまざまの商品、枯れ葉、小石、かんなくず、小さな木片を載せて、商売ごっこをしている様子で、イエズスはお母さんのためにいろいろなものを買い、それらの品物を彼女のところへ持って行く。マリアは、ほほえみながら買物を受け入れる。
       それから、遊びが変わる。子供の一人がこう言い出す。
      「エジプトの脱出ごっこをしよう。イエズスはモーセ、私はアロン、おまえは…マリア(2)
      「だって、私は男だもの!」
      「それはかまわない。同じだ。お前は、マリアで黄金の仔牛の前で踊るんだ。仔牛は向こうの蜜蜂の巣にしよう(3)
      「私は踊らない。私は男で女役なんか、いやだ。私は信仰者で、偶像の前で踊ったりするもんか」
       イエズスが口を入れる。
      「じゃあ、そのことではなく、ヨシュアがモーセの後継ぎに選ばれるところ(4)にしよう。そうすれば、偶像崇拝のあんな汚い罪もないし、ユダも男になって、私の後継ぎになるのを喜ぶだろう。ねえ、うれしいでしょう」
      「そうとも、イエズス。でも、そうしたら、あなたは死ななければならない。だって、モーセはあとで死ぬから。こんなにいつも私を愛してくれる、あなたに死んでほしくない(5)
      「皆、死ぬんだ。だけど、私は死ぬ前にイエスラエルを祝福する。しかし、ここにはお前たちしかいないから、お前たちにおいて全イスラエルを祝福する」
       皆、承知する。しかし、すぐ問題が一つ起こる。あんな長い旅をしたのに、イスラエルの民はエジプトを出た時に持っていた車を、まだ持っていたか、どうか。意見は一致しない。それで母マリアに聞きに行く。
      「母さま、私がイスラエル人はまだ車を持っていたと言ったら、ヤコボはそうでないと言うの。ユダはどっちが本当か分からない。母さまはご存じでしょう」
      「そうです、イエズス。あの流浪民には、まだその車がありました。どこかに止まる時、ちゃんと車を修繕して、それに弱っている人たちを乗せたり、また、たくさんの民に必要だった食糧とか、他の物が載せられていたのです。手で運ばれていた聖櫃を別にして、他の物は、すべて車で運んでいたのですよ」
       こうして問題が解決される。子供たちは、庭の奥まで行って、そこから、詩編の歌を唱えながら家の方へ来る。イエズスは先頭に立って、銀の鈴のような声で詩編を歌う。その後ろに、ユダとヤコボとがついて来るが、聖櫃の位に上げられた手押車を支えている。けれども、アロンとヨシュアのほかに、人民の役もしなくてはならないので、紐で小さいおもちゃの車を足につけて、本当の役者のような、まじめな顔をして進んで来る。棚の下をずっと通って、マリアの部屋のドアの前に来ると、イエズスが言う。
      「母さま、通る聖櫃に挨拶して」
       マリアはほほえみを浮かべて立ち、太陽のきらめきの中に、輝かしく通る御子の前にお辞儀をする。
       それから、イエズスは、家、むしろ庭の一番端になっている小山の側に登って、小さな洞窟の上に立ってイスラエルに話す。神の命令と約束とを繰り返し、ヨシュアを指揮者として指定し、自分のそばに呼び、こんどはユダも小高いところに登る。イエズスはユダに元気をつけ、祝福する。それから板をもらい—これはいちじくの葉っぱであるが—そこに賛歌を書くまねをして、それを読む。全部ではないが相当の部分で、本当に葉っぱに書かれているかのように読んでいる。それから、自分を泣きながら抱くヨシュアにいとまを与え、小さい丘の端まで登って、そこから全イスラエル、すなわち、地面にひれ伏している二人を祝福し、それから短い草に横になって目を閉じて…死ぬ。
       ほほえみながらドアの所に立って、これを見ていたマリアは、横になって固くなった彼を見ると大声で叫ぶ。
      「イエズス、イエズス、立ちなさい。そんなかっこうやめて! あなたのお母さんは、死んだあなたを見たくない!」
       イエズスはニコニコして立って、母の方へ走って行って接吻する。ヤコボとユダもやって来る。マリアはこの二人もなでる。
      「あんな長くてむずかしい詩編と、その祝福を全部、どうしてイエズスは覚えていられるの!」とヤコボが聞く。
       マリアがほほえんで「彼は記憶力がよくて、私が読む時に注意しているから」と簡単に答える。
      「私は学校で注意しているけれど、あんな長いうめき声を聞くと眠くなる。それなら、私にも覚えられるかしら」
      「できますとも、安心して」とマリアが答える。
       だれかが面の戸を叩く。ヨゼフが足早く庭を突っ切って戸を開ける。
      「あなた、アルフェオとマリアに平和!」
      「あなたたち皆にも、祝福あれ」
       妻と一緒のヨゼフの兄である。力強いろばがひっぱる田舎風の車が道に止まっている。
      「よい旅行でしたか」
      「よかった。子供たちは?」
      「マリアと一緒に庭にいます」
       子供たちは、お母さんたちに挨拶のためにもう走って来ている。マリアもイエズスの手を引いてやってくる。
      義理の姉妹たちが接吻を交わす。
      「子供たちは、おとなしかった!」
      「非常にかわいらしく、とてもおりこうでしたよ、親戚は皆、お元気ですか?」
      「皆元気です。カナから挨拶といろいろなおみやげを送っています。ぶどう、りんご、チーズ、卵、蜜、そして…ねえヨゼフ、お前がイエズスのためにほしがっていたものをちゃんと見つけた。車の上の丸いかごの中にある」
       アルフェオの妻が笑う。その大きく開いた目で自分を見ているイエズスの上にかがんで、空の切れはしのように青く澄んだ目の上に、接吻して言う。
      「あなたのために、何を持って来たか分かる? あててごらん」
       イエズスは考えるが分からない。私は、ヨゼフにうれしい驚きを与えるために、わざと知らないふりをしているのではないかと思う。ヨゼフは丸い大きなかごを運んでくる。イエズスの前に置き、ふたを留める紐を解いて開くと、全く白い泡のような小さな羊が、きれいな干し草の中に寝ている。
       イエズスは、うれしそうにびっくりした”おお!”の声を上げて、小さな動物を早速、抱こうとするが、しかし、すぐ振り向いて、まだ地面にかがんでいるヨゼフの方へ走り寄って、感謝しながら抱いたり接吻したりする。
       二人の小さな従兄弟たちも、今、目覚めてバラ色の鼻面を上げて、お母さんを探して鳴き始めた子羊を感嘆して眺める。小羊をかごから出して三つ葉の一握りをやると、羊は柔和な目で見回して食べる。
       イエズスが言い続けている。
      「私のため! 私のため! お父さんありがとう!」
      「そんなに気に入ったのか」
      「おお、とっても! 真っ白で、清い、おお、この小さな雌羊!」
       小さな腕を小羊の首にかけ、ブロンドの頭を羊の顔に寄せて、そのまま幸せそうにじっとしている。
      「お前たちにも二頭つれて来た」とアルフェオは子供たちに言う。「だが、それは小麦色だ。お前たちはイエズスのようにきちんとしていないから、白かったら、すぐ汚してしまう。これはお前たちの群れにして一緒に番すれば、このいたずら小僧たち二人も、道で石を投げたり、ブラブラしたりしないだろう」
       二人の子供は、車の方へ走って行き、うす黒い二頭の羊を見る。
       イエズスは自分の羊と一緒に残り、それを庭に連れて行って水を飲ませ、羊は、ずっと前から知っているようについて歩く。イエズスは羊に”雪”という名前をつけて呼び、羊は、うれしそうに鳴いて答える。
       お客たちは、食卓につき、マリアはパン、オリーブ、チーズなどを運んでくる。また、よく分からないが、りんご酒か、蜜の水が入った壷も置く。ただ、薄い薄いブロンドの液体と見える。皆が食事をとりながら話しているうちに、子供たちは三頭の羊と遊ぶ。 イエズスはほかの羊たちにも、飲み水と名前を与えたかったので一緒に集める。
      「ユダ、お前のは”星”と呼ぼう。額にそのしるしを持っているから。お前のは”炎”と呼ぼう。枯れそうなエリカのような色をしているから」
      「うん。そうしよう」
       大人たちに向って、アルフェオが言う。
      「これで子供たちの絶えないけんかを解決したと思う。ヨゼフ、お前のアイデアが私を照らした。こう考えたのだ。”私の弟は、イエズスの遊び相手に小さな羊をほしがっている。私はあの二人のいたずらっ子のために二頭買おう。こうすれば、頭のこぶと膝のすりむき傷のために、他の親たちとの絶えまのないゴタゴタや苦情がなくなって、おとなしくなるだろう。学校へも行くし、それから、羊と遊んだら、静かにしていてくれるだろう”と。
       今年は、お前もイエズスを学校へ上げるべきだ。もう、その時になった」
      「私は、絶対にイエズスを学校へはやりません」と断固としてマリアが言う。このような調子でヨゼフよりも先に話すのを、初めて聞いた。
      「なぜ! 子供が、その時になったら、成人の試験を受けなければならないから、いろいろ習うべきだ…」
      「あの子は、もう知っています。そして、学校へは行きません。もう決まったことです」
      「それは、イスラエルで例のないことではないか」
      「初めてのことかもしれないが、しかし、そうするつもりです。そうでしょう、ヨゼフ」
      「そのとおり。イエズスにとって、学校へ行く必要はありません。マリアは神殿で教育を受けた。律法の知識では、本当の先生と変わらない。私も、そう望んでいる。マリアが、その先生であればよい」
      「しかしそうすれば、お前たちは子供を甘やかすのではないか」
      「そんなことはない。イエズスは、ナザレトの一番よい子です。彼が泣いたり、わがままを言ったり、逆らったり、尊敬を表わさないことなど、見聞きしたことがありますか」
      「それはそうだ。けれど続いて甘やかせば、いつかそうなるだろう」
      「子供たちを自分のそばに置く、というのは甘やかすことではない。大事なことは良識と良い心をもって、子供を愛することです。私たちはイエズスを、このように愛している。そして、マリアはこの辺の先生よりも学問があるので、イエズスの先生となればよい」
      「しかしね、そうしたら、あなたのイエズスは、大人になって蠅さえも、こわがる女の子みたいになるだろう」
      「いいや、そんなことになるはずはない。マリアは分別のある女で、男らしく彼を教育できよう。私も卑怯者ではなく、男らしい模範を与えるのを知っている。イエズスは心と体とに欠点のない子です。身も心もまっすぐな力強いものとして成長するにちがいない。安心して、アルフェオ。私たちに家族の面目を失わせるようなことはありません。私がそう決めたので、これだけで充分です」
      アルフェオが、「どうせ、マリアが決めたのだろう。そしてお前は…」
      「そうだったら悪いと言うのか。相愛している二人が、同じ心、同じ望みを抱くのはよいことではないか。愛があれば、一人が望んだら、もう一人もそれに同意する。マリアが愚かなことを望んだら、私は”いや、それはだめだ”と言う。しかし、彼女は知恵にあふれることばかり望んでいるので、私はそれに賛成し、私は、それを自分のものとする。私たちは、最初の日と同じように相愛し、命あるかぎりそうするにちがいない。そうでしょう、マリア!」
      「そうですとも、ヨゼフ。こんなことにならなければよいが、しかし、一人が死んで一人が残っても、つづいて相愛するでしょう」
      義理の姉は口をはさむ。
      「二人の言うとおりです。ああ、私が教えることができたら!…学校では、善いことも悪いことも習う。家ではよいことだけ教えることができる。もしもマリアが…」
      「お姉さん、何でしょう?どうぞ遠慮なくおっしゃってください。私が、あなたをどんなに愛しているか、ご存じでしょう、あなたの気に入ることができれば、どんなにうれしいか」
      「まあ、ただ私が言いたいことは…。ヤコボとユダとはイエズスよりも少ししか年上でない。二人は、もう学校へ行っているが、しかし何を知っているか…それに引き換え、イエズスは律法をもうよく知っている。こんなことちょっと言いにくいけれど、もし、あなたがイエズスに教えている時に、あの二人にも一緒に教えてくだされば…私としては、そうすれば二人とも、もう少しよく、知識深くなると思う…。三人は従兄弟で、兄弟にように互いに愛し合うとしたら、すばらしい。そうしてくだされば、私はどんなにうれしいか!」
      「ヨゼフも同じ意見で、また、あなたのご主人もそうだったら、私はかまいません。一人のためにも、三人のためにも話すのも同じです。一緒に全聖書をおさらいするのも喜びです。いつでもいらっしゃい」
       静かに、静かに入って来た三人の子供が、すべてを聞いて判決を待つ。
      「あいつらは、あなたの堪忍袋の緒を切らせるでしょう。マリア」とアルフェオが言う。
      「いえ、いえ。私といればいつもよい子にしています。私が、あなたたちに教えれば、よい子で聞いてくれるでしょう?」
       二人は、マリアのそばに走り寄って、腕をその首に回し、小さい頭を寄せて、ありとあらゆる ”約束” をする。
      「アルフェオ、試させてください。あなたも、この試しに不満はないでしょう。毎日、午後から夕方まで、ここに来ればよい。それで充分でしょう、信じて。私は、あきさせないで教える術を知っています。子供たちを夢中にさせると同時に、気ばらしを与えるべきです。彼らから、何かを得たいならば、彼らを理解し、愛し、また愛させるべきです。あなたたちは、私を愛しているでしょう、そうでしょう?」
       返事は二つの大きな接吻である。
      「ごらんのとおりです」
      「よし、分かった。私にはあなたに ”有難う” しか言えない。しかし、イエズスは、自分のお母さんがほかの子に気を配るのを見ればどう思うだろう。ねえ、イエズス、お前はどう思う?」
      「私はこう言います。”毎日、私の扉の前で立って気をつけ、門前を離れず、私の言うことを聞く人は幸せである”(格言8・34)。知恵の場合と同じように、私の母の友だちである人は幸せで、私は、私が愛している人が、彼女の友だちであるのはうれしい」
      「しかし、あんなことばを、だれがあの子に言わせるのか?」
      とびっくりしたアルフェオが聞く。
      「だれも、兄さん。この世の人、だれも」
       ここでヴィジョンが終わる。
            *     *     *
       イエズスが言われる。
      「こうしてマリアは、私、ヤコボとユダの先生となった。このために親戚関係のほかに、学問と一緒に育っただけでなく、一つの幹から出た三つの枝のように育った。兄弟のように、相愛したのである。イスラエルで比類のない先生、私のやさしい母が、知恵の座、”まことの知恵の座” の私の母が、私たちに、この世のためと天のための知識を教えた。私が ”私たちを教えた” というのは、私も二人の従兄弟と同じように、彼女の生徒だったからである。この世に共同生活をする、という表面の下に、サタンの探りにもかかわらず、神の秘密についての ”調印” が守られたのである。
      あなたは、このやさしい心、安らぐヴィジョンを見てうれしいでしょう。今は平和の中に、イエズスはあなたとともにいる」

       


      (1)ルカ2・40。
      (2)モーセの従兄弟で癩病にかかった。
      (3)脱出32章参照。
      (4)荒野27・12~23、第二法31~34。
      (5)”未来の使徒、アルフェオの子、小さなユダが答える”と欄外に著者が書いている。

      40 一人の律法学士との対話

      2016.01.25 Monday

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        マリア・ワルトルタ著『イエズスに出会った人々(二)』あかし書房刊より (フェデリコ・バルバロ訳編)

        40 一人の律法学士との対話

         タリケアという小さな半島から一マイルほど離れたヨルダン川の右岸に降り立つと、熱心もののシモンと二人の従兄弟が出迎えた。
        「先生、小舟で分かりました…。おそらくマナエンも目印の一つになったかもしれません」
        「だれにも見つからないように夜出発し、だれとも口を利きませんでした。信じてください。あなたがどこにおられるかと、多くの人に聞かれましたが、私はただ皆に『出発なさいました』と伝えただけです。あなたの所在については、小舟を用意した漁師のせいで分かったのだと思いますが」
        「弟のバカめが!」と、ペトロがわめく。
        「話すなと言っておいたのに! それに、ベッサイダへ行くと言ったのに! しゃべったり、おまえのひげをむしり取ると言ったのに! 絶対に、そうするぞ、そうしてやるぞ。もうこれから平和や休息や孤独とは、おさらばさ!」
        「よしよし、シモン。私たちはもう休息の日々を過ごしたではありませんか。その他に、私が目的としていたこと、つまり、おまえたちに教え、慰め、また、おまえたち同士やカファルナウムのファリサイ人との間に、いざこざが起こらないように、おとなしくさせることもできました。さあ、私たちを待っている人たちのところへ行きましょう。その人たちの信仰と愛とに報いを与えるために。この愛も、心をなごませるものです。私たちは憎みがゆえに苦しみます。ここには愛だけがあり、そのために喜びがあります」
         ペトロは、垂れた帆のように、しょんぼりしてしまう。イエズスは、”治してほしい”と顔に書いてある病人の輪のへ行き、一人ずつ、変わらぬ忍耐強さと慈悲深さで次々と治す。病身のいたいけな子供を抱え上げる律法学士にも同じ態度を取る。この律法学士はこの後、話し始める。
        「ごらんなさい。あなたは逃げようとしても無駄です。憎しみと愛は、いち早く見つけ出します。ここでは雅歌に言われているとおり、愛があなたを見つけました。あなたは雅歌の花婿のようです。町を巡回する番兵も気にせず、スラミスの娘が花婿を捜すように、皆があなたのところへやって来ます(1)
        「なぜ、そんなことを言うのですか、どうして?」
        「本当だからです。あなたは憎まれているので、あなたのところへ来るのは危険です。ローマはあなたを見張っています。神殿があなたを憎んでいるのを知らないのですか」
        「人よ、なぜ私を試みるのですか。あなたのことばには、わなが仕掛けられています。神殿とローマとに私の返事を知らせるために。私は下心があって、あなたの子供を治したわけではありません」
         律法学士はやんわりととがめられ、恥ずかしそうにうなだれて告白する。
        「あなたは人間の心の真実をありのままに見ていると分かりました。ゆるしてください。あなたが本当に聖であるのがよく分かりました。おゆるしください。ここへは、私の心に他人が置いたパンだねを発酵させながらやって来ました…」
        「パンだねが発酵するには、あなたの中に下地があったからです」
        「そうです、そのとおり…だけど、今はパンだねなし、いえ、むしろ新しいパンだねで出直します」
        「知っています。それは心配していません。ほとんどの人は自分の意思で罪を犯します。他人の意思による場合も多いが、正しい神に裁かれるはかりは違うに違いない。律法学士のあなた、正しい人でありなさい。これからは、あなた自身が他人に腐らされたからと言って、他人を腐らせてはいけません。世間があなたに圧力をかけるかもしれないが、その時は死から救われた生きる恩寵であるあなたの子供を見て、神に感謝しなさい」
        「あなたに感謝」
        「また、神に、すべての栄光と誉れ。私は神のメシアで、だれよりも先に神をほめたたえ、その光栄を探します。そして、だれよりも先に神に服従します。なぜなら、人間は真実をもって神に仕え、神の光栄のために働けば、己を卑しくすることはなく、罪に支配されることこそ己を卑しくするものです」
        「よくぞ、おっしゃいました。いつもこのようにお話しになるのですか、皆のために」
        「皆のために。アンナにも、ガマリエルにも、道端に横たわっている癩病者にも、ことばは同じです。真理は同じだから」
        「では、お話しください。あなたの一言、あなたの恵みが欲しくて、皆ここへ集まっているのですから」
        「それでは話しましょう。自己の信念を正直に考える人から、私に偏見があると思われないように」
        「私が抱いていた信念はもう死にましたが、正直言って、こう考えていました。あなたに逆らって、神に仕えようと思っていました」
        「あなたは真実です。だから、いつも偽りではない神を理解するという恵みが与えられました。けれども、あなたのそういうふうな信念はまだ死に絶えてはいない。はっきり言っておきます。あなたの考え方は、草焼きされた雑草のようです。一見、死んだように見えるけれど、根はまだまだ生きています。それに、大地がその雑草を育て、露は新芽、若葉を伸ばそうとします。こんなことが起こらないように警戒すべきです。そうでなければ、また雑草に覆われてしまいます。あなたの中でイスラエルはなかなか根絶やしにできるものではありません」
        「イエスラエルは死なねばなりませんか。邪悪な木ですか」
        「よみがえるために死ぬべきです」
        「霊的な輪廻ですか」
        「霊的な進化です。いかなるものにも輪廻はありません」
        「輪廻を信じている人がいます」
        「それは間違いです」
        「ヘレニズムは私たちの中にもこういう考え方を植えつけ、知識階級の人たちはいかにも気高い糧のように受け入れたり、誇りにしています」
        「六百十三の細かい掟のうち、ただ一つ違反したがために破門を宣告するような人たちにとっては背理であり、矛盾です」
        「本当です…しかし、そのとおりです。憎んでいるにもかかわらず、その人のまねをしているのが実情です」
        「それでは、あなたたちは私を憎んでいるのだから、私のまねをしなさい。そうすれば、あなたたちは大助かりです」
         律法学士はイエズスのこの気の利いたしゃれを察知し、機知に富んだ笑みを浮かべる。人々は口をあんぐりあけたままで聞いている。離れたところにいる人たちは、前にいる人たちに教えてもらう。
        「ここだけの話ですが、あなたは輪廻についてどうお考えですか」
        「さっき言ったとおり、間違いです」
        「存在しているものは、皆無に帰せないので、生きるものは死んだものから生まれ、死んだものは生きるものから生まれるという考え方を支持している人がいます」
        「実際、永遠であるものは皆無に帰せません。だが、あなたの話から察すると、創造主自身に制限があると思っているわけですか」
        「いいえ、先生、それは考えただけでも、神を冒涜するものです」
        「あなたの言うとおりです。では、決められた以上の数の霊魂はあり得ないのだから、ある霊魂が別の体に生まれ変わるのを認めていると考えますか」
        「考えられないはずですが、なおかつ、そう思う人はいます」
        「その上、悪いことに、そう考えるのは、あるイスラエル人なのです。未信者はいろいろ誤解をしているけれど、霊魂の不滅性を信じています。イスラエル人は、過ちすべてを除外して信ずるべきです。不滅性を未信者風に考えると、いかにも卑下されたものとなります。神の知恵は限りなく霊魂たちを造ることができます。霊魂は創造主から〝有〟にのみ移行し、いつの日か、死活の判決を聞いて命が終わり、また創造主へと戻ります。それは本当です。裁きのときに送られるところに永遠に残ります」
        「あなたは煉獄を認めないのですか」
        「認めます。どうしてそういう質問をするのですか」
        「あなたが『死んだ人は送られたところに残る』と言われたからです。かえって、煉獄は一時的なものです」
        「私はその煉獄を永遠の命の考えに結びます。煉獄は言ってみれば縛られて気絶しているような状態です。煉獄で一時的に止められ、それから霊は完全な命、限りない命に達します。そうしたら、残りは二つしかありません。天と深淵、天国と地獄だけです。霊魂も二つで、〝幸せな人々と滅びた人々(2)〟ですが、その国でどんな霊魂も再び肉を帯びることはありません。これは最終の復活の時まで続き、その時には霊魂が肉体へ入り、不滅のものは死ぬべきものに入るという循環が閉じられます」
        「永遠のものの循環ですね」
        「永遠のものは神だけです。永遠とは始まりも終わりもないということで、それは神です。不滅とは、生き始めたときから継続して生きるということで、人間の霊はそれです。つまり、永遠のものと不滅のものとの違いはここにあります」
        「あなたは〝永遠の命〟と言われるが」
        「そうです。人は命を与えられたとき以来、その霊は恩寵また意志によって永遠の命に至るのです。これは永遠ではない。命は始まりがあることを前提としています。だから〝神の命〟とは言えません。なぜなら、神には始まりがないからです」
        「それで、あなたは?」
        「私は人間でもあります。神の霊に、人間の肉体とともにキリストの霊魂を合わせたので私は生きます」
        「でも、神は生きるもの(3)と言われているではありませんか」
        「実際、神は死を知らず、尽きることのない命です。神の命ではなく、ただ〝命〟です、これだけ、今言ったことはニュアンスだけですが、知恵と真理はこのように微妙に現れます」
        「異邦人や異教徒にもこのようにお話しになるのですか」
        「このようにではありません。分かるはずがないから。あの人たちに、子供を相手にするように、太陽だけ見せます。でも、その太陽の成り立ちの詳しい説明はしません。イスラエルのあなたたちは目が不自由でも愚か者でもない。何世紀も前から神の指があなたたちの目を開き、知恵が霧を払っています」
        「先生、そのとおりです。それなのに、私たちは盲目で愚かです」
        「そうです。己をそうしたのです。おまけにあなたたちを愛している人の奇跡を望まない」
        「先生、まあ、先生」
        「律法学士よ、これは本当のことです」
         律法学士は黙ってうなだれる。
         イエズスはこの人をそこに残したまま立ち去る。色とりどりの小石で遊び始めた律法学士の子供とマルジアムの頭をなでて行ったイエズスは、伝道するよりも、そこここに集まった人たちとの対話を専らにしている。だが、これも絶えざる伝道と言ってよい。なぜなら、様々の疑問を解き、いろいろな考え方を照らし、既に話したもろもろのことをまとめたり広めたりしているからである。こうして時が過ぎていく。

        (1)リンボのこと。マテオ25・31~46。
        (2)ワルトルタの著作によれば、キリストの最初の到来のとき、太祖たちのリンボを閉じ、大再臨のときには幼な子のためのリンボを閉じる。そのため、マテオ25章と同じ様に天国と地獄だけが残る。
        (3)エレミア10・10。集会の書18・1。ダニエル4・31、12・7。 

         

        死者たちの中の長子 つづき

        2016.01.22 Friday

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           このようにして、真理の御言葉と、また嘘を吐(つ)けない天使たちと、またすべてにおいてただその父、その子、その花婿の完全さにのみ劣る完全さを備えたマリアと、また彼が昇天するのを見た使徒たちと、また最初の殉教者ステファノと、また彼に次ぐ多くの人びとは、イエズスが死者たちの中の長子であり、人間として自分の肉と共に最初に天に入ったと、確認したのである。誕生の日は一人の義人が肉から解放された霊魂と一緒に至福の霊魂たちの仲間に加わることだと言われる。イエズスはその至聖なる人間としての誕生の日に、人間-神というその全資質、すなわち肉、血、霊魂、そして神性と共にそこに居を定めた。なぜなら完全な無辜の人であったのだから。
           しかし第二の死というものがある。すなわち恩寵が欠如している霊魂のそれである。厖大な数の義人たちは、幾百年、幾千年も前から贖罪が彼らを原罪から浄化し、自分の内に超自然の生命をもつ者だけが入れる神の王国の一員となるために彼らにそれを許してくれるよう待ち望んだのだった。しかしそれよりももっと、キリスト以後に生まれて来た厖大な数の人間たちが、意図的に行った重大な罪からの浄化を遂げるであろう時、あるいは完全極まりない正義が、良心の掟に基づいて、存在すると感じている神に仕え、礼拝し、こうして教会の魂の一部となって愛徳と正義をもって生き行動した者たちすべてに、天を開くであろう時を待ち望んでいる。
           すべての霊魂を創造し、そのすべてを恩寵へと予定した完全な愛徳である神が、その王国から、自分の責任によらずに受洗しなかった者を排斥するとは考えられない。彼らにどんな過ちがあるというのか? 自分から自発的にカトリック信仰の浸透していない地域を選んで生まれたのか? 死んで生まれる新生児には、洗礼を受けなかった責任が負わされるのか? 厳密な意味で『教会』ではないが、神から霊魂を授かられたのだからそれに属しているといえる人びと、死んで生まれてきたために無垢の死者たちであったり、あるいは自然の傾向によって善を行い正しい生き方をし、それによって至高の善を称え、彼らのうちと周辺にその存在を証言したこれらの人たちに対して、神が残忍な仕打ちをすることなどどうしてありえようか? いいや、ありえない。それが胎児であろうと生まれたばかりの命であろうと、原罪を取り除く洗礼の秘跡を授けるのを妨げ一つの命を抑圧する者に対して、神が与える情け容赦の無い峻厳な審判は、そうでないことを立証するものである。もし、これらの無垢の霊魂たちが、神から引きはなされたままで幾百年、幾千年もの間、罰をうけるでもなく、かといって神を見る喜びを味わうでもない状態に放置されるほど神は厳格だというのか? 万人を恩寵に向けて予定した、無限に善である存在が、自らの自由な選択の余地無くカトリック者でない人たちから、その恩寵を横取りするなどと考えられるだろうか?
           『天には我が父の家が数多くある』、とイエズスは言った。この世が消滅するであろう時、新しい世界、新しい天、そして永遠のエルサレムの新しい幕屋があるだろうし、理性をもつ全被造物は、義人であった復活者たちの称賛と共に神の永遠の王国の所有によって栄光化され、教会の魂とだけ一致していた人たちも天にその住まいを得るだろう、というのも、永遠に残るのは天国か地獄のみであろうが、また、愛徳が、それにふさわしくないこの被造物を永遠の責め苦のために地獄に落とすとは考えられないからだ。
           父の手に霊魂を返したイエズス・キリストは、アダムの代わりに、その至聖なる霊と共に、最初に、生命の王国に入った。ほんとうは天の民の一人としてそこに最初に入るべきであったのはアダムであったのに、彼はその背信により霊魂と共にそこに入るのに幾千年も待たねばならなかったし、霊魂に再結合した肉と共にそこに入るためには、それよりももっと長い幾千年を待たねばならないのだ。イエズスはそうではない。『大きな叫び』を上げ、その霊魂を父に委ねた瞬間、その神-人間の本性である無限の愛徳により、この上なく正義に貫ぬかれた彼の魂は、人類の過去・現在・未来のすべての罪を背負っていたが、霊魂の命である恩寵を失わせる原罪は負わず、彼の完成された生贄を通じてすべての罪を消滅するためにそれを負い、人のあらゆる霊魂と等しく、父から裁かれたのだ。そして父は、生贄の成就以前のように、『罪とはかかわりのないかたをわたしたちのために罪となさった』(第二コリント5・21)。けれどもそれがすべて成就されると、『神はこの上なく彼を高め、すべての名にまさる名を惜しみなくお与えになった。こうして天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものはすべてイエズスの名において膝を屈め、すべての舌は「イエズス・キリストは主である」と表明し、父である神の栄光を輝かす』(フィリピ2・9~11)。 裁かれると直ちに人間としてのその霊魂、完全の域に達していたその霊魂は、体に再び結合し、死んで生者となり、栄光の復活者、肉も具備した最初の栄光の復活者、霊魂と肉体において天に生まれた最初の人、復活者たちの初物、義人たちに対する復活の約束、彼が王であり、相続人の長子である王国の所有の証拠である生者となる瞬間まで、主のうちに喜び、主のうちに憩った。
           父の遺産、その子らのために彼が定めた遺産は常に長子に与えられた。またキリストの全兄弟たちはこの永遠の、聖なる、王的遺産に与るはずであったから、彼は彼の血そのもので書いた聖なる遺書をもって、彼らにそれを結び付けた。また父が彼に与え、彼がその兄弟たちである人びとに与えるために受けた王国における分け前を受けるように、自分を死に渡したのだ。遺言書は遺言を残した者が死んではじめて有効になるのだから(ヘブライ9・16~17)。
           多くの長子権による長子イエズスは、こうして父の意志に基づき、王たちの王、永遠の世紀の主として、最初に王国を所有するのである。この父は全能、アルファでありオメガ、初めであり終わり、力、知恵と愛徳である者、なすことをすべて知り、すべてのことをなし、善い目的に向って完璧に行い、そしてこのゆえにその御言葉を産み、時が来ると彼に肉を与え、したがって生贄として屠り、続いて復活させ、称賛し、釘で刺し貫かれたその両手に審判するあらゆる権力を与えた。ために、どれほどの者たちは彼を見、物質的にあるいは罪を犯して彼を侮辱し、彼を刺し貫いたかを見、繰り返しおのが胸を叩くことであろう。すなわち個別に受ける審判に際して、また審判主キリストの最後の出現に際して、このように定められたのだから、そうなるだろう。 

          マリア・ワルトルタ著 『― 世紀末の黙示録 ―  手記  抜粋』より
          死者たちの中の長子(黙示録1・5)。