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2017.01.04 Wednesday

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    聖グリニョンド・モンフォール著『聖母マリアへのまことの信心』デルコル神父訳1993年度版

    2013.07.19 Friday

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      63 ここでわたしは、おお愛するイエズスよ、あなたの方をふり仰いで、キリスト信者のほとんどが、学問のある者もない者も、あなたとあなたのおん母との間に、どれほど深い結びつきがあるかをよく理解していないという点について、心から嘆きたいのです。
       主よ、あなたはいつもマリアと供にあり、おん母は、もう、マリアという存在は生きていないと云える程に、恵みによって、あなたご自身に変化しておられるのです。おおわたしのイエズスよ、どんな天使よりも、どんな聖人よりも、おん母の中において、より完全に生き、治められるのは、あなたです。ああ、もし、この美しいおん母によって、あなたがどれほどの愛と栄光とを受けておられるかを知ったら、きっと世の人々も考え直すでしょう。
       太陽から光をひきはなし、火から熱をとるほうがもっと容易であろうと思われる程に、聖母は、あなたと強く一致しておられます。いや、それどころではなく、すべての天使と聖人とはあなたから引き離すほうが、マリアおひとりを引き離すよりも容易でしょう。マリアこそは、どんな被造物よりも熱くあなたを愛し、誰よりもよく、あなたに栄光を帰しておられるからです。

      64 こう考えてくると、愛するわたしの主よ、この世の人々が、あなたの聖なるおん母に対して、これほどに無知であると知るのは、嘆かわしく、驚くべきことではありませんか。と云っても、わたしは今、あなたを知らないからおん母をも知ろうとしない、偶像崇拝者や異教徒を相手にしているのではありません。また、あなたと、そしてあなたの聖なる教会から離れて、しぜんに、おん母をないがしろにする異端者や離教者について話しているのでもありません。わたしが、誰について話しているかと云えば、カトリックの信徒たち、いやそればかりではなく、人々に真理を教えることを恥としているカトリックの教師たち(*20)についてです。
       これらの人々は、冷たい理論と、血と熱もない冷淡さでしか、あなたとあなたのおん母hとのことを考えようとしません。聖なるあなたのおん母と、そのおん母に対する信心について、あまり話そうとしません。それはなぜかと云うと、おん母をあまり尊ぶことは、あなたへの侮辱になると、かれらは云うのです。そうでしょうか?聖なるおん母を深く信心しているある人が、この信心は、迷いのない確実な手段だ、危険のない近道だ、完全に清い道だ、キリストへの愛に至る不思議な神秘だ、と見事に証明したとします。すると、先に云った人々は、その信心家をけなし、聖母に対する信心について、そういうふうに話してはいけない、それは迷いになりやすい、むしろその信心を弱めるように努めて、人々をイエズスにだけ向けさせなけらればならないと申します。
       かれらも、時々は、あなたのおん母について話しますが、それはその信心をすすめるためではないのです。かれらは、マリアへの信心をもっていないから、当然、あなたへの信心ももっていないわけです。ですから、ロザリオとか、スカプラリオとかは、無学者か老婆の信心の道具であって、救いのためにかならずしも必要なものではないと申します。聖母を信心している人が堕落するようなことがあると、これ見よと云わんばかりに、聖母への信心をやめて、七つの詩編をとなえよとか、イエズス・キリストへの信心をせよなどとすすめます。
       おお、愛するイエズスよ、この人たちが、本当にあなたの精神をもっていると云えるでしょうか? かれらのこのやり方は、あなたをお喜ばせするでしょうか? あなたのお気に入らないのではないかと恐れて、あなたのおん母のお気に入るように努力しないことが、果たしてよいことでしょうか? おん母への信心が、あなたへの信心をさまたげるでしょうか? おん母への尊敬は、おん母のためだけのものでしょうか? 聖母のお気に入るように努めることは、あなたへの愛から遠ざかることになるのでしょうか?

      65 それなのに、愛する主よ、学者と云われる多くの人は、わたしが今云ったことを肯定するかのように、人々を、聖母への信心から引き離そうと熱を入れています。それは、かれらの傲慢の罰ではなくて何でありましょう。
       主よ、かれらのそういう考え方から、私を守ってください。そして、わたしがあなたを模範とし、あなたに従えば従うほど、あなたを愛し、あなたの栄光のために働くことが出来ますように、わたしを守ってください。あなたが、あなたのおん母に対して抱いておられる感謝と尊敬と愛の気持ちを、わたしたちにも分けてください。

      66 またわたしのつたない手を導き、「聖なるおん母にふさわしい尊敬と称賛とをささげられるように恵みを与えてください」(*21)
       わたしも、聖人たちと共に、こうとなえましょう、「聖なるおん母を侮辱する者は、神のあわれみを願う資格がない」と。(*22) 

      *20 ここでモンフォール師は、当時(1680~1715年)のマリア信心の危機について話す。前にあった出過ぎた信心に反対するためとはいえ、カトリックの博士たちでさえ、これと正反対の極端に流れてマリア信心を非難していた。モンフォール師も、マリア信心の乱用といつわりの傾向をはげしく非難している(本書90-104条)が、一方では、まことの信心を正しく紹介するように努力している。このマリアに対する信心は、キリストに対する中心的な礼拝と競争する同じ程度もものではなく、キリストと一致し、キリストに似たものとなり、マリアを通じて、キリストに奉献されるためである。
      *21 聖ボナヴェントゥーラのことば。
      *22 パリのギョームGuillaume師のことば。

      聖グリニョンド・モンフォール著『聖母マリアへのまことの信心』山下房三郎(トラピスト会司祭)訳1980年発行

      2013.07.18 Thursday

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        63 こうした中で、主よ、わたしはあなたのほうに向きなおって、愛情こめて嘆き訴えさせていただきたいのです。キリスト信者の大部分が、しかも、もの分かりのいい人たちでさえ、あなたと御母マリアとの間には、お互いを結び合わすキズナが必然に存在していることを、すこしも理解していません。主よ、あなたはいつも、マリアとともにおられ、マリアはいつも、あなたとともにおられ、あなたから離れることができません。もしマリアがあなたから離れると、マリアはもうマリアではありえなくなるのでしょう。
        恩寵によって、マリアはスッカリあなたに変容し尽くされていますので、生きているのはもはやマリアではなく、存在しているのはもはやマリアではない、と言えるほどなのです。イエズスよ、あなたこそ、ただあなただけが、マリアのうちに生き、支配しておいでになるのです ― 天のすべての天使、すべての聖人のうちにおけるよりも、もっと完全な仕方で。
         ああ、あなたがマリアのうちにあって、受けておいでになる栄光と愛を、すこしでも理解することができましたら、その人はきっとあなたについて、またマリアについて、これまでとちがった考えを持つようになるでしょうに。太陽から光を引き離すほうが、火から熱を引き離すほうが、むしろ容易だと思われるぐらい、それほど緊密にマリアは、あなたと一つになりきっておられます。いいえ、それどころではありません。天国のすべての天使、すべての聖人をあなたから引き離すほうが、あなたからマリアを引き離すよりも、むしろ容易なのでございましょう。マリアは、ほかの被造物よりも、もっと熱烈にあなたを愛し、もっと完全にあなたに栄光を着せておいでになるからです。

        64 いとも愛すべき主よ。こうした現実にもかかわらず、地上のすべての人が、あなたの聖なる母マリアのことに関して、あまりに無知である、あまりに忘却のやみに沈んでいる、ということは、なんとも驚くべきこと、なんとも痛ましいことではないでしょうか。わたしは、異教徒のことや、偶像をおがんでいる人たちのことを言っているのではございません。この人たちは、もともと、あなたをごぞんじないのですから、マリアさまのことを知ろうとしないのは当然です。わたしはまた、異端者や離牧者のことを言っているのでもございません。この人たちは、あなたからも教会からも、離れているのですから、マリアさまに信心をしないのも当然でございましょう。
        わたしがここで言っていますのは、カトリック信者、しかもカトリック信者の中でも、インテリ階級にぞくする学者先生のことです。この先生がたは、ひとに真理を教えることを、一生の職業としていながら、あなたのことも知らねば、あなたの聖なる母マリアのことも知っていないのです。たまに知っていても、それはあくまで、純理論的で無味乾燥な、不毛でうるおいのない認識でしかありません。
        この先生がたは、マリアさまについて、マリアさまへの信心について、ごくごくまれにしか話しません。マリアさまをあんまり尊敬すると、それは信心の乱用である、あなたへの侮辱である、と言っているのです。たまたま、マリアさまを熱烈に崇敬している者が、マリアさまへの信心について、この信心は、イエズス・キリストを完全に見い出し、愛するための、まちがいのない確実な手段である、危険のない最短の道である、欠陥のない清らかな方法である、本人しか知らない秘訣である、と心をこめて、力づよく、納得のいくまで、しばしば話しているのを、この先生がたが見たり聞いたりしてごらんなさい。さっそくかれらは、このマリア信心家に向かって、くってかかり、こう言うのです ― そんなことはない、マリアをそんなにほめそやしてはいかん、マリアへの信心には、本質的に大きな欠陥がある、この欠陥を取り除くために大いに努力せにゃいかん、信者大衆を、マリアへの信心に投入するために説教するよりも、むしろイエズス・キリストについてこそ説教すべきだ、と。そして自分らの説を証明するために、あらゆるウソの理論を展開しているのでございます。
        イエズスよ。ときたまかれらは、あなたのお母さまへの信心について話しているようですが、それはマリアへの信心を強め、納得させるためではなく、かえってそれを、ぶッこわすためなのです。この先生がたは、マリアへの信心をもっていないのですから、とうぜんあなたに対しても、本当の、心からの信心をもっていません。
        かれらは、ロザリオ、聖母の肩衣などへの信心用具を、それは女、子供の信心だ、無学信徒専用の特許品だ、そんなものがなくても、天国へはちゃんと行ける、などとクサしています。ロザリオをとなえたり、または何か聖母に対して信心の務めを果たしている者が、不幸にもかれらの手に落ちますと、かれらはすぐに、この聖母信心家の洗脳にとりかかります。ロザリオのかわりに、痛悔の七つの詩編をとなえたらどうか、とすすめるのです。マリアへの信心をやめて、かわりにイエズス・キリストへの信心を増強するように、とすすめるのでございます。
        愛すべきイエズスよ。この人たちは果たして、あなたの精神をもっているのでしょうか。このように行動することが、ほんとうにあなたを喜ばせることなのでしょうか。あなたのごきげんをそこなうのではなかろうかと恐れて、あなたのお母さまを喜ばせるために、ありったけの努力を投入しないことが、果たしてあなたを喜ばせることなのでしょうか。
        あなたのお母さまへの信心が、あなた自身への信心にとって、ほんとうにさまたげとなっているのでございましょうか。あなたのお母さまは、ご自分にささげられる栄光と賛美を、ひとり占めにしていらっしゃるのでしょうか。あなたのお母さまは、天上天下、まったくひとりぼっちなのでしょうか。あなたにとっては縁もゆかりもない、赤の他人なのでしょうか。あなたのお母さまを喜ばそうと努力することは、それだけあなたを不愉快にすることなのでしょうか。あなたのお母さまへの奉仕に献身し、あなたのお母さまを心から愛することが、そのまま、あなたへの愛から自分を引き離し、遠ざけることにつながるのでしょうか。

        65 それなのに、愛すべき主よ。学者先生の多くが、その高慢の罰として、わたしが今さき書いたことがみんな事実でもあるかのように、マリアさまへの信心からまったく遠ざかり、まったく無関心を決めこんでいるのでございます。どうか、主よ、マリアさまに対するこの人たちの悪感情と冷淡な態度から、わたしをまもってください。かわりに、あなたがお母さまマリアに対していだいておられる感謝、尊敬、愛のお気持ちを、わたしにも分け与えてください。わたしがもっと近くからあなたを模倣し、あなたにつき従うようになれば、それだけいっそうあなたを愛し、あなたの栄光をあらわすことができるからです。

        66 これまでいろいろ書きてまいりましたが、あなたの聖なるお母さまのほまれのためには、まだひとことも言っていないような気がいたしますので、どうか主よ、マリアさまをふさわしくたたえるお恵みを、わたしに与えてください。マリアさまへの賛美を妨害する敵 ― それは同時にあなたの敵 ― が、どんなに多くてもかまいません。わたしは、敵の頭上に、聖人たちとともに、大声を張り上げて次の聖句を投げつけてやりたいのです。「神の御母を侮辱する者が、どうして神のあわれみを期待できますか」(パリのギョーム)
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