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2017.01.04 Wednesday

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    「み心が天に行われるとおり地にも行われますように」

    2013.11.16 Saturday

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      カトリック中央協議会発行『カトリック教会の カテキズム』P821~P823より  

       主の祈り: 「み心が天に行われるとおり地にも行われますように」

      #2822 御父のみ心とは、「すべての人々が救われて真理を知るようになること」(一テモテ二・四)です。御父は、「一人も滅びない…ようにと、…忍耐しておられるのです」(二ペトロ三・九)。他のあらゆるおきてを要約し、み心のすべてを私たちに告げ知らせる神のおきてとは、神が私たちを愛してくださったように私たちも互いに愛し合うというものです。

      #2823 神は、「秘められた計画を私たちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神のみ心によるもので、…あらゆるものが…キリストのもとに一つにまとめられます。…キリストにおいて私たちは、み心のままにすべてのことを行われるかたのご計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」(エフェソ一・九〜十一)。私たちは、このいつくしみの計画がすでに天上で行われているのと同じように地上でも完全に実現されますように、と心からお願いするのです。 

      #2824 御父のみ心は、キリストにおいて、またその人としての意思を通して、完全に、また決定的に成就されました。イエスはこの世においでになられたときに、「ご覧ください。私は来ました。…神よ、み心を行うために」(ヘブライ十・七)といわれました。イエスだけが、「私は、いつもこのかたのみ心を行う」(ヨハネ八・二十九)、ということがおできになります。イエスは死を目前に控えた苦悩の祈りの中で、み心に身をゆだね、「私の願いではなく、み心のままに行ってください」(ルカ二十二・四十二)と祈られます。なぜイエスは、「み心に従い、…ご自身をわたしたちの罪のためにささげてくださった」(ガラテヤ一・四)のでしょうか。「このみ心に基づいて…イエス・キリストのからだがささげられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです」(ヘブライ十・十)。 

      #2825 イエスは「御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ五・八)。被造物であり、罪びとであり、しかもイエスに結ばれて神の子とされた私たちはなおさらのこと、そうでなければならないはずです。私たちは御父に、み心、すなわち、世にいのちを与えるという救いの計画が実現するために、私たちの望みを御子の望みに合わせてくださるようにお願いします。私たちには、その力は全くありません。しかし、イエスに結ばれ、聖霊の力に助けられるならば、自分の意思を神にゆだね、御子が常に選ばれることを選んで、御父のみ心にかなうことを行うことができるのです。 

      「私たちはキリストと一致することにより、キリストとただ一つの霊となって、キリストの心を心とすることができます。こうして、み心が天に行われるとおり地にも行われることになるのです」。 

      「(イエス・キリストが)謙虚であるべきことをどうお教えになるかが分かりますか。私たちの徳は自分の努力だけではなく、神の恵みによるものでもあると示しておられるではありませんか。同時にキリストは、祈る私たち一人ひとりに、世界全体のことに思いを馳せるようにと命じておられます。また、私のうちに、あるいはあなたたちのうちに『み心が行われますように』といわれたのではなく、全地に行われますようにといわれたのです。それは、地上の誤りが取り除かれて真理が全地を支配し、あらゆる悪が破壊されて再び徳が栄え、地上でも天上と同じようにいつまでも大切にされるためなのです」。 

      #2826 私たちは祈りの中で、何が神のみこころであるかを判断し、み心を行うための忍耐を得ることができます。イエスは、私たちが天の国に入るのはことばによってではなく、「私の天の父のみ心を」(マタイ七・二十一)行うことによってであると教えられます。 

      #2827 「神は…み心を行う人のいうことは、お聞きになります」(ヨハネ九・三十一)。主イエスのみ名によってささげられる教会の祈りには、大きな力があります。とくにエウカリスチアにおける祈りがそうです。エウカリスチアとは、聖母マリアやすべての聖人たちと心を合わせた執り成しのための交わりのことですが、その聖人たちは主のみ心を行うことだけを望む、主の「み心にかなう」方々だったのです。 

      「『み心が天に行われるとおり地にも行われますように』という言葉を、私たちの主イエス・キリストご自身のうちに行われるように教会にも、御父のみ心を果たされた花婿のうちに行われるようにキリストの花嫁のうちにも行われますように、と理解しても、間違いではありません」。  

      『カトリック教会のカテキズム』第2部 神の十戒 第2章「隣人を自分のように愛しなさい」より

      2013.08.21 Wednesday

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         #2245 「教会はその任務と権限から見て、決して政治的共同体と混同すべきものではなく、いかなる政治体制にも拘束されるものではありません。同時に、人間(ペルソナ)の超越性のしるしであり、またその保護者です」。教会は「国民の政治的自由と責任を尊重し促進します」。

        #2246 「人間の基本的権利や霊魂の救いが要求するときには、政治的秩序に関することがらについても倫理的判断を下すこと」は、教会の使命に属することです。「これらを行うにあたって教会は福音にふさわしく、時と条件の違いに応じてすべての人の益にふさわしいあらゆる手段を、そしてそれのみを用いる」のです。

        #2257 すべての社会は、何らかの人間像やその未来像をそれぞれの判断や行動の根拠としています。神と人間とに関する福音の光に従わない社会は、容易に「全体主義」に陥ります。

        #2261 聖書は、「罪なき人、正しい人を殺してはならない」(出エジプト23・7)という説明をつけて、第五の掟で述べられている禁止の意味を明確にしています。罪のない人を故意に殺害することは、人間の尊厳や黄金律、ならびに創造主の聖性とは相いれない重大な罪です。これを定める法は普遍的に有効であり、時と所とを問わず、すべての人間、また一人ひとりの人間を束縛します。

        #2263 個人および社会の正当防衛は認められます。それは罪のない人を故意に殺害することを禁止するおきての例外としてではありません。「自己防衛の行為によって二つの結果が生じる可能性があります。一つは自分自身のいのちの保全であり、他は攻撃者の死です」。「一つの行為によって、それだけを意図していた結果と意図していなかった結果との二つが生じるような場合、その行為が禁じられることはありません」。

        #2264 自分自身に対する愛というものが、倫理の基本原理です。したがって、自分の生きる権利を他の人の攻撃から守るのは正しいことです。自分のいのちを守るために戦う者は、たとえ攻撃者をやむなく殺すことがあったとしても、殺人の罪科を負うことはありません。
        「自己防衛のために、必要以上に暴力を振るうことはゆるされません。しかし、他人の暴力を適度に退けることはゆるされます。…また、この適度な自己防衛のため、やむなく他人を殺すことがあっても、救霊に差し支えありません。他人のいのちよりも自分自身のいのちにいっそう留意しなければならないからです」。

        #2265 正当防衛は単に権利であるばかりではなく、他人の生命に責任を持つ者にとっては重大な義務となります。共通善を防衛するには、不正な侵犯者の有害行為を封じる必要があります。合法的な権威を持つ者には、その責任上、自分の責任下にある市民共同体を侵犯者から守るためには武力さえも行使する権利があります。

        #2266 人々の権利や市民社会の基本的な規定に反する有害な行為が広がるのを抑制する国家の務めは、共通善を守るという要求にこたえるものです。合法的な公権は、違反の重さに比例した罰を科す権利と義務を持っています。処罰の第一の目的は、違反行為によってもたらされた混乱を正すことです。違反者がこれを喜んで受け入れるとき、償いの効果は達せられます。処罰にはまた、公共の秩序を守り市民の安全を擁護することに加えて、加療するという目的があります。処罰は、可能な限り、違反者側の矯正に役立つものでなければなりません。

        #2294 科学的探求やその応用が倫理的には善でも悪でもないと主張するのは、間違いです。他方、科学技術を方向づける基準となるものは、単なる技術的効果でもなければ、他の人の犠牲をもとにしてある人々にもたらすような利用価値でもありません。ましてや、支配的なイデオロギーなどではありません。科学や技術は、その本来の意味を大切にして、倫理の基本的な基準を無条件に尊重しなければなりません。これらは神の計画とそのみ旨とに沿ったもの、すなわち、人間、およびその侵すことのできない権利、ならびにその真の十全な幸せに役立つものであるべきなのです。

        #2309 軍事力による正当防衛を行使できるための厳密な条件というものが、真剣に検討されなければなりません。そのような重大な決定を行う際には、倫理的正当性の厳格な条件に従う必要があります。そのためには、以下のすべての条件がそろっていることが必要になります。

        ― 国あるいは諸国家に及ぼす攻撃者側の破壊行為が持続的なものであり、しかも重大で、明確なものであること。
        ― 他のすべての手段を使っても攻撃を終わらせることが不可能であるか効果をもたらさないということが明白であること。
        ― 成功すると信じられるだけの十分な諸条件がそろっていること。
        ― 武器を使用しても、除去しようとする害よりもさらに重大な害や混乱が生じないこと。
         現代兵器の破壊力は強大なので、当条件についてはきわめて慎重に考慮すること。

        以上は、いわゆる「正当な戦争」論に列挙されている伝統的な要素です。

        戦争を倫理的に正当化する以上の諸条件がそろっているか否かを慎重に判断することは、共通善についての責任をゆだねられている人たちの任務です。

        #2316 武器の製造や売買は、諸国家ならびに国際社会の共通善に抵触するものです。政治をつかさどる者にはこれを規制する権利と義務とがあります。国家間の暴力や紛争を引き起こさせたり国際的な法秩序を混乱させるような事業を、個人や集団の短期的利益を追求するために始めることは、ゆるされるべきものではありません。

        #2321 殺人を禁止することは、不当な攻撃者の攻撃を封じる権利を否定することではありません。正当防衛は、他人の生命もしくは共通善の責任を持つ者にとっては重大な義務となります。

        『指針 あがないの秘跡』教皇庁 典礼秘跡省著から

        2013.07.13 Saturday

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          第三章 四 ミサの祭儀と他の儀式の結合

          78  ミサの祭儀を政治的あるいは世俗的なイベントと結びつけたり、カトリック教会の教導職の教えと完全に合致しないような状況と結びつけたりすることは許されない。さらに、一般的にミサの祭儀を単に見せ物としたいという意図をもって、あるいは、世俗的な式典を含む他の式典のようなしかたで執り行ってはならない。そうすることによって、聖体がその真正の意味を失いかねないからである。