十字架の神秘 5
2016.12.11 Sunday
第二章 十字架の追想
《民衆は立って見つめていた。議員たちもあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで選ばれた者なら自分を救うがよい」》(ルカ23・35)
民衆はただ立って十字架のイエズスを見つめていたという。イエズスがどのようにふるまって死ぬのか、それは人間的な関心を持った見つめ方であった。その目には信仰の光がさし込んではいなかった。それは自分が救われることを願っての見方ではない。世の終わりまで人びとは、十字架を見つめても、自分の救いのために何の役にも立たないと言うであろう。キリストの苦しみは一つ一つ人びとの救いの恵みの源泉になるものであるのに、それを無駄に見過ごしているのであった。しかし議員たちは、もっと悪い行動をとった。自分たちの救いの恵みを拒否したのである。他人を救いながら、自分自身を救うことのできない愚かさとあざ笑ったのである。それは単に人間的生命を救うことにかぎっての言葉である。もともと人間的生命は、神からの死の宣告を受けているのである。サタンが、死ぬことはないと楽園で人祖をだましたためであった。議員たちは、衆議会員であったから、司祭衆であり、ユダヤ教の長老たちであった。彼らは宗教、律法、神の代理人として自らを任じていたが、その宗教は、自分自身を救うことに始終していた。彼らはただ自然的生命を守ること、この生命を生きぬくことを信条とする立場からキリストの十字架の死を眺めていたのである。キリストの救いと死はそれらを目的としていなかった。
彼らの宗教と信仰は神の生命に、永遠に生きる幸福に結びつくことのないものであった。それは偶像の信仰と同じことであり、キリストに対しても自分自身を救うことを要求する。キリストにおいて、自分を救うこととは何であるか。それは御父の聖意を果たすことであり、十字架にかかって、人びとの罪を贖って死ぬことであった。彼らの言うように、十字架から降りて自然的生命を救ったとしても結局は自分を救うことができない。死ぬことによってキリストは、すべて改心する人の魂を救い、自分の霊魂をも救うことになった。しかし、この真理を眺めて、人びとはあざ笑うのであった。
真理は厳しければ厳しいほど、人びとの心はそれに反して偽りの暗闇に陥るのである。
《兵士たちは、イエズスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自一つずつ渡るようにした》(ヨハネ19・23)
イエズスの衣服を四等分に分けたのであると言っているが、将来の教会が同じ福音を信じていながらも、分裂することを前もって示していると想像することができる。世界が終わるまでイエズスの教会が互いに分裂し、対立して争う運命であるかのようである。それぞれの教会はイエズスの福音の言葉を衣のように分け合って成立しているが、唯一の聖なる信仰がなければ単なる教訓にすぎないものになる。彼を十字架につけた兵士たちは、信仰の持ち主ではないので、ただ役目として働いたのである。今日の不信仰なる者と同様に、人間的欲得の行為に刺激されてイエズスの衣服を分割し、自分たちの金銭的利益をはかって、それを分け合うのである。
キリストの救いの福音にも、幾世紀もの長い間に人間的思想が交錯しあって、そのつど分裂を生み、多くのキリスト教会なるものが出現している。神よりの信仰は純粋であれば一つであるが、世紀が進むたびごとに、対立し、分裂がひどくなっている。キリストの救いの恵みは、彼が言っているように分かれ争うところにはないもので、キリストの体である教会もまことに一つであって、十字架にかけられていると思われる。教会はキリストの神秘体ではあるが、衣服ではない。彼の福音と言っても、神の言葉は人間がつかう言葉を用いて表現しているので、いわば人間の衣服のようなものである。衣服を分割しても、神の恵みの本質は人によって分割されるものではない。人間の思考や思想を信仰に混入すればするほどそれだけ不純になり、分裂と対立を生むものである。分かれ争うところにはキリストの体も姿も見えなくなる。神の本来の姿というものは人間の思惑によって分割されるものではない。信仰といってもさまざまな形態があって、救いの恵みをあたかも彼の衣服のように分割して、自分のものとしたとしても、それは失われるものである。
キリストの衣服でも、信仰のない兵士たちには霊的救いのためにはなんら役に立たなかった。今日の人びとも教会に入籍してその一員となって生活を営んでも、信仰のない者には救いの恵みがないのである。世界的にいかに大きな働きをして、大いなる役割を果たしたとしても、信仰のないものは、十字架の下で、キリストの衣服を分け合った兵士たちと同様で大差はない。聖書の言葉を神のものとしてのべ伝えても、信仰に生きることがないものには、なんの役にも立たない。本当の信仰は、神の言葉を受け入れ、愛をもって守ることによって証明されるが、キリストの衣服を自分の利益のために分け合っていた兵士のように、福音の宣伝を自分の利益と名誉のために使うのであれば、その人は救われることがないであろう。
《イエズスは、母とそのそばにいる愛する弟子を見て、母に「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」と言われた》(ヨハネ19・26)
釘づけにされていたイエズスは、手や足、全身が火炎に包まれているかのような激痛のさなかにあって、母とかたわらに立っている弟子を眺めて言われた、そのもの静かな言葉には驚きを感じる。それは人間のものではなく、神の言葉であった。婦人よと呼びかけるが、かつて神が人祖アダムとエバを楽園から追放されたとき、蛇に対して、新しい婦人を出現させて、蛇の頭を踏みくだかせることを宣言した「婦人よ」という言葉に思いあたる。また、イエズスが公生活の初めに、カナの婚宴の場において、最初の奇跡をおこなうにつれて、自分の母なるマリアの願いを受けいれて、婦人よと呼びかけた。今、十字架のもとに立っている母を眺めて、婦人よ、と聖書で三たび呼んでいることに重要な意義がある。つづいて、「ごらんなさい」と言って彼の愛する弟子を指名して、これはあなたの子であると言った。彼が十字架の上に流した血を、真っ先に十字架の下に立っているヨハネにまず注いで、彼を救いにあずからせ、彼女の子としたのである。十字架の彼の血が流されて、罪が洗われなければ、誰も神の子となってキリストの兄弟に結ばれて、聖母の子に生まれ代わることはできない。この神秘である霊的真理を、イエズスは十字架の上からみごとに遺言として与えたのである。これはまことに意義深い信仰の奥義である。
キリスト信者は、イエズスの十字架の血の神秘に生かされてこそ彼の母を自分の母としていただけるものである。彼の血が、神の計画の神秘の働きによって、マリアの子となる恵みをいただくのであって、それは自然の働きではない。イエズスの人となりは、母マリアの胎内に、聖霊の働きによって自然の肉体をもった人間として宿ったのである。罪人であるわたしたちは、神の御子の血によって罪から贖われ、清められたのちに、聖霊によって、聖母の霊的子となることを示している。これこそ隠された十字架の神秘である。この神秘の奥義は、自然の知恵では悟ることなく、神だけが知っているので、神にはなにものも隠されていない。いったん罪に陥った人間がゆるされて救われることは、サタンにとっては、この上もないねたましいことであり、恐ろしいことのように思われる。この神秘を通して、救い主の母、マリアがわたしたちの霊的な母となるのであってサタンはその神秘に恐怖を感じている。創世記の言葉によれば、神の御子はその母と子らによって、サタンの頭を世界の終わりに一緒に踏みくだき、キリストの神秘体が完全に勝利をおさめるのである。
神の言葉に従ってわたしたちが、聖母を霊における母として信仰のうちにいただくということは、どれほど素晴らしいことであろうか。聖母のみ心に自分をささげることは、この婦人に愛されることであり、それと同時に天の御父が聖母と共にいらっしゃる愛のうちに包まれることになる。そうでなければ、神の国、天国は約束されていないのである。
十字架の下に立っていた婦人は、とめどなく涙を流しながら、御子のしたたる血を眺めて共に苦しみ、罪人であるわたしたちの罪の霊魂が贖われることに協力し、わたしたちを霊的に産むのであった。わたしたちも信仰のうちに、この婦人の涙、聖母の涙を思い起こして見ることができるが、信仰のない者にとっては、世に隠されたこれらのことは目に見えないものなので思いつくこともないのである。
《それから弟子に言われた。「見なさい、あなたの母です」。そのときから、この弟子は、イエズスの母を自分の家に引き取った》(ヨハネ19・27)
わたしは若いころからカトリックの司祭としてこの聖書の言葉を引用して、何回となく人びとに、聖母がわたしたちの母であると語ってきたのである。多くの人はそれを聞いて一応うなずくことがあっても、それはそれとして通り過ごしたであろう。今日、あらためて聖書の言葉を読むにつれて、より深い意義に感動をおぼえるが、これを信仰の真理として受け取って、二千年前のヨハネ個人の出来事のように、わたし自身が信仰をもって受け取らなければならない。聖母の意義を感じていない者は、それほど宗教的意義があるものとして受け取ってはいないだろう。
教会がキリストの神秘的身体であるとすれば、キリストはその頭であり、わたしたちがその肢体として結ばれている。自然の形態でも頭を産んだ女は当然その肢体をも次つぎと産むのである。だからわたしたちを産んだその婦人を母と呼ぶのである。聖母は、今もキリストの神秘的肢体を産むのであれば、母たる真理に適合する。罪人であるわたしたちを、新しくキリストの神秘体として世の終わりまで産むことは、ある意味で苦しみの連続性を思わせるのである。人祖エバに対して神は「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む」(創世記3・16)と言って、聖母の前じるしを告げているようだ。神秘体の頭であるキリストを産んだ母は、彼に愛された弟子をも産むのである。
この弟子は、そのときから「イエズスの母を自分の家に引き取った」とされているが、彼の霊魂は神の家となって、主の母を受け入れて信仰したのである。イエズスの言葉は、この真理に適合する信仰をつくるものであって、彼の愛はすべてを与え、母さえもわたしたちに与えるのである。単なる自然の出来事のように見せかけてはいるが、神の聖霊の働きによって、霊的に完成される母と子との深い関係である。使徒ヨハネは神の子の言葉を聞いて、神殿となるべき自分の霊魂の家に、信仰と愛のうちにその母を引き取ったと見るべきである。
これらのことをふまえて考察すれば聖母を疎外する者、無関心な者は、自分の信仰の家たる心に、彼女を引き取ることがないので、神の言葉に適合してはいない。イエズスが愛する弟子に言った最後の言葉であるだけにきわめて重要である。世界にはキリストを信じる者がたくさんあるけれども、彼の母、聖母をヨハネのように引き取っている者はいまだに少ない。
ヨハネはこのときから聖母を霊的な産みの母として受け取って聖霊の働きに受諾したのである。イエズスが十字架の上から、「見よ!」と呼びかけて、「母がここにいる」と指摘して、神の言葉のうちに、母の生命に生きる子の存在を確立させたのであった。母と子との間の生命のつながりほど親密な関係は他になく、それは神が永遠にわたって結んでくれた生命の秩序であった。十字架のイエズスは、わたしたちにも、彼を産んだ母が、わたしたちの母親であることをくしくも認識させる言葉として残して、安心して世を去るのであった。
十字架の神秘 6
2016.12.07 Wednesday
『十字架の神秘』安田貞治神父著(緑地社発行)
第二章 十字架の追想より
ルカ福音
《「われわれは、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない」》(ルカ23・41)
犯罪者の一人は、自分の罪を認め十字架の苦しみを当然のこととして受けている。これは神の正義を認めていることになる。罪の痛悔は真理を愛しているといえる。しかしイエズスは、なんら悪をおこなってはいない。むしろ善をおこなっている。それでも犯罪者と同じく苦しみ、不正を平然として受け入れ十字架の苦しみを受けている。なぜそのような不合理が実現しているのか。イエズスの十字架は、人びとの罪を贖うためであって宗教的犯罪かのように仕立てられているが、内心は償いとして神にささげられている。
イエズスは律法にそむいた者、神殿の破壊者、偽りのメシアとして訴えられていた。同じように神を求めているとはいえ、そこには明白な信仰の相違があった。それは偶像の信仰と神に嘉せられる真の信仰との相違であったろう。偶像の信仰とは暗闇の信仰のことであり、人間に仕える利欲への信仰である。神への聖なる信仰は、あくまでも神に属するものである。真理の光といえる神の光のなかに歩むものである。偶像の信仰は人間的な欲のなかに、暗闇のなかに、残酷な仕打ちのなかに歩むものである。これは利益を求めて真理を憎むものであり、不正を喜び、不正を愛するものである。キリストの十字架は、不正を愛する者たちのしわざであったが、犯罪者の一人は、キリストの十字架を見て、これこそ不正な十字架刑と見る。それに反して、ユダヤ教の司祭たちは、当然で正当な十字架刑と喜び合うのであった。そのようなことが今日でもあってよいものであろうか。しかし、そのようなことは今日もなお多い。偶像の信仰があるかぎり、真理を憎む者は絶えることがないのである。このような人でも自分は神に仕えていると思って、真理を迫害していることに気づかない。この事実こそ暗闇に仕える偶像の信仰である。それは自分の傲慢によって獣になり下がり、神の地位を奪おうとする信仰であり、単に自分自身に仕える信仰であって、神に奉仕する謙遜な信仰とは、根本的に違っている。それは自分の傲慢によって他を制圧する権力であり、へりくだって十字架にかかったイエズスの御父の思召しに生きる信仰ではないのである。イエズスの人性はすべて信仰の従順の形体をとっている。それはわれに倣えとペトロにすすめた信仰の従順の徳であった。イエズスにとっても御父の聖意を果たすことが根本になければ十字架は無意味であろう。多くの人は十字架を眺めて、神を礼拝しているといっても、わが身に十字架の屈辱がふりかかり、苦しみを受けることになれば、それを拒否してしまう。そのことはただキリストだけに十字架を求めて喜んでいるようなものである。わが身を十字架につけてこそ本当にキリストを礼拝する信仰であるが、右側の盗賊はこの信仰を見つけた最初の人であった。
《「イエズスよ! あなたが御国においでになるとき、わたしを思い出してください」》(ルカ23・42)
彼の願いは、イエズスが御国において、このわたし、犯罪者を思い出してください、ということであった。イエズスが彼を思い出すということ、これは何であろうか。自分のような者でも、憐れみをかけてくださいとのことのようである。イエズスの思い出は、神の思い出である。それには内的な精神のつながりがなければならない。イエズスが知らないという者は聖書によれば、そとの暗闇に捨てられた者である。わたしはあなたたちを知らないと審判のときに仰せになる。それはイエズスと内的な関係、霊的生命のつながりのない者にかぎる。神の生命につながりがあってこそ救いにあずかる。十字架にかかった犯罪者は、イエズスに一筋の内的かかわりを求めて、思い出してくださいと願うのである。それは信仰のかかわりであった。このように、救われた者は信仰によって、イエズスと結びつくことが必要である。わたしたちも、復活し昇天なさったイエズス、神の右の座につかれているイエズスと一筋の内的かかわり、霊的生命のかかわりに生きていなければたすかりが得られない。救われる兄弟に対して、残酷なふるまいをなす者は、神の愛に生きることはないのである。この犯罪者が願ったことを、われわれも願うのでなければ、天国に入れないであろう。主よこのわたしを思い出してくださいと祈る必要がある。それは罪のことではなくて罪を悔い改めたことを思い出してくださいと言うのである。往々にして人びとは神に対して、自分が罪人であったことを悔い改めない。多くの人びとは、自分の罪を認めないばかりか、自分はこれでよしと考えている。それは神に対しての傲慢心であり神を見くだしているのである。自分を尊び他人に誇り、無限の神の働きの尊さを忘れ、自分の意欲を重んずるのは、人びとの傲慢のあらわれである。神のはからいを無視して、自分の意欲を自由なる世界に打ち立て自分をあがめる偶像の信仰である。十字架にかけられた犯罪者は神のはからいを優先して、自分の意欲を願うのではなく、自分に課せられた罪の償いに甘んじ、とうて神の国に入る資格がないと思って、イエズスの思いやり、憐れみを願うのである。神の意志を尊重するのが真の信仰である。
《するとイエズスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと共に楽園にいる」と言われた》(ルカ23・43)
イエズスのこの言葉は確かである。犯罪者の魂は、すっかり罪がゆるされて、イエズスと共に楽園に入るとの約束である。この言葉は人間の自然の善業も、人間の精神面の誇張も、自分を善人とみなしている人も、イエズスの楽園に入る資格がないと証ししている。それだけで自分の自然性を誇っている者があれば、誰も神の国に入ることはできない。人は誰でも自分の罪は認めにくく、自分の善を誇ってしまう。人間の理性とはそのように自分が善であるかのように働き、そう見せたいものである。しかし神に対する畏敬の信仰がなければ、人間は自分が罪のなかにあることを認識しようとしない。人間の理性は、自分はよいものとして働くが、神の働きを認めようとしない。アダムはこの理性の知識の実を、神のはかりしれない知恵よりも、重んじて食べた最初の人であった。人間は理性の知識の実をみだりに味わえば、神の知恵から離れるものである。人間が神の国に入れるのは、父の思し召しをおこなってこそ可能なのである。神の御子は、マリアを通して人となり、父のご意思であるみ旨をおこなって神の国、父の国に入れることをわたしたちに教えたのである。自然的理性によってだけでは、神の国に入ることはできない。
この自然界に住むために働く理性だけでは霊的な神の国があることさえわからない。神の言葉によって、神の国と、思召しが人間に提供せられるのである。神の言葉は生きて働くもので信仰によって神の言葉に従順になれるのである。自分を愛して生きるものは、信仰によるよりも理性に重きをおくので自己中心になりがちになる。神を愛するならば信仰によって、神の言葉、神のはからいを受け取るので従順になり神の愛に一致して生きることになるのである。十字架にかかりながらイエズスに願った犯罪者は、救い主であるイエズスをそっくり受け入れて依り頼んだことによって、神の言葉を疑いなく受け入れたのである。この信仰によって彼は救われた。自分の業、善、理性によって救われたのではなく、イエズスの贖罪によって贖われた最初の人である。この救いの真理を見逃しては救いがない。人間の理性は、神の真理をよそにして働けば、ひとりよがりの傲慢に陥り、神に反逆するものとなるのである。
十字架の神秘 4
2016.12.06 Tuesday
マルコ福音
《それから、ある者はイエズスにつばを吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また下役たちは、イエズスを平手で打った》(マルコ14・65)
現時の国家法の裁判では、神を冒涜するというような刑法は成り立っていない。イエズスの時代のユダヤ教の裁判においては、最大の悪、罪は唯一なる神を冒涜することであた。その罪に値する者があれば、直ちに石打ちにして殺されたものである。
大司祭をはじめとして最高法院の人たちが、ナザレのイエズスを神を冒涜する者として死刑の判決を下したので、その後、彼をどう扱うか、民衆たちの間に起こったことが記されている。手を縛られたイエズスを囲んだ民衆にとって、まずつばきを吐きかけて、神から捨てられたもの、呪うべきものとして宗教的最高の権威から捨てられたものを侮辱するのは当然なことであった。これらの人びとは、途方もない侮辱をあびせかけるのが、かえって神を礼拝する行為だと考えたのであろう。またある者は、イエズスに目隠しをして、こぶしで殴りつけたとあるが、イエズスの目を見るのは良心がゆるさないので、目隠しのまま打ち叩き、誰が叩いたのかを預言してみろ、と言い放った。
預言というものは、神の全知なる知恵に照らされて、神のはからいを前もって預言するものであって、人が尊敬をもって受けなければならないものである。大司祭から見はなされ、ユダヤ教から破門され死刑に定められたイエズスを見る大衆の目は、少しの同情もなく、かえって憤激の的として、怒り狂うのであった。
かつてのイエズスの言葉、福音の教え、無数の善業、病人の癒しの奇跡、何千人もの飢えを満たしたパンの奇跡さえもなんら役に立たなかった。それどころか、かえって偽りのメシア、神殿を破壊し、神を冒涜したとの大司祭の宣告によって、民衆は裏切られたとの感情を燃え立たせたのである。
大司祭の下役どもは、イエズスの頬を平手で打っていたと聖書に告げられているが、そのときはすでにペトロをはじめ、使徒の仲間はイエズスを捨てて逃げてしまっていた。一人の同情者、好意をもつものもなく、ことごとくわれ関せずとの態度をとっていた。
今日の世界でごミサの聖祭が毎日カトリック教会でおこなわれているが、ご聖体の聖変化の言葉に「あなたがたのために、わたされるわたしの体である」というのは、この侮辱されているキリストのの体を連想させるのである。現代の典礼学者や神学者たちは、聖体の秘跡は礼拝の対象となるものではなく「とって食べるものである」と説明しているときくことが多いが、それはパンの形色のみをさして言えることであって、深い信仰の霊的意義に欠けたもののように思われる。イエズスの体は、今や新しい典礼と神学によってしばられているという思いがする。そのような誤った思考が横行しているとすれば、大衆の宗教的行為は、聖体の秘跡に隠されているイエズスに、つばきをかけた民衆と同様であると思わねばならない。
ルカ福音
《これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエズスをヘロデのもとの送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。彼はイエズスを見ると、非常に喜んだ》(ルカ23・6~8)
ピラトは、自分のこれまでの調べによって、イエズスには死刑に値する罪がないことを知って、ローマの法律に照らして、彼を殺すことはできないと人知れずに良心的呵責をを感じていた。人は誰でも、自分の良心にそむいて行動するのは罪だとわかっている。ピラトもできるだけ罪にならないようにふるまって、イエズスがガリラヤ人だと知って、それならヘロデ王の支配下にあるので、これさいわいとばかりに、ヘロデ王の権利を尊重した形で、イエズスの裁判を任せるほうがよしと考え、ヘロデ王のもとに送ったのである。これはピラトにとって、最悪の罪の責任をまぬかれる好機会であった。これまではローマの総督として、ヘロデ王の権限を快しとしていなかったようである。人間の権力というものは、独裁的であればあるほど栄誉に輝くものである。対立する権力があると相対的になり、敵視の形を構成するものである。
ピラトはこの際一歩さがった形で、自分の罪をまぬかれるために、ヘロデ王の権力を認めて、イエズスを裁判するように願ったとみることができる。
ヘロデ王は、自らの権限がはじめてローマの総督から認められ公認されたことを喜んだ。聖書に「彼はイエズスを見ると、非常に喜んだ」とあるのは、そのことを含めてのことである。そのときの彼はとくに、奇跡をおこなうイエズス、天からのしるしをおこなう彼を見たいと望んでいたので、やっとかなえられたという思いだったのであろう。神からつかわされたメシアであって、人民に評判の高い人である彼の裁判をするとは、全国民にかけて、これほど名誉に値する職権を持ったためしがなかった、と感じたかもしれない。もともと傲慢であるヘロデの心は神のような威光に輝く思いがしたであろう。それで「彼を見ると非常に喜んだ」との表現は、今に至るまでまざまざと目に浮かぶように福音記者は書きとどめている。
一方ピラトから送られてきたイエズスの心は、どんなものであったか、誰も押しはかることはできない。この場合、タライまわしにされる一般人の心はどうであるかと言っても、結末のつく問題ではない。それが犯罪人であれば、人びとから足蹴にされるものである。イエズスの場合もまさにそれであった。ヘロデ王にまわされても、イエズスの釈放は期待できなかった。
ヘロデはちょうど一年前か二年前に、預言者ヨハネに、自分の罪を責められたので、牢獄に閉じ込め、誕生日の祝日に、悪びれもせずヨハネの首をはねて殺した。彼はピラトよりも深い罪の権化のように思われるのである。
それに反してイエズスの心は、聖なる神に対する人間の罪の違反を謝罪し、無限なる神の正義を満たすために、不正なる仕打ちを耐え忍んで、ひたすら従順の償いを御父にささげるのであった。不正なる罪は、不正なる苦しみと死をもって償わなければ、バランスがとれなかったようである。
《しかし、人々は一斉に「その男を殺せ、バラバを釈放しろ」と叫んだ》(ルカ23・18)
ヘロデ王は、イエズスに死刑の判決をしないで、ピラトのもとへ送り返したので、二人とも彼に罪がないと公然と言い放ったことになる。ピラトが、例年の過越祭の行事には、一人の罪人が民衆の願いによって釈放される慣例を思い出して、民衆に叫んで言った。そのとき、釈放はバラバかキリストかと問いかけた。バラバは、死刑囚で暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの一人であった。そのとき大司祭たちをはじめ、民衆の叫び声は、一斉にバラバを釈放しろというものであった。ピラト自身の判断では、よもやバラバという声ではなく、メシアであるイエズスであると信じていた。それはイエズスのこれまでなさった善業である癒しの奇跡を多くきいていたからである。しかし、反対にその男を殺せという恐ろしい叫びであった。
このとき、人間の常識は通用せず、以上に殺気じみた激昂が飛び交い、神からつかわされた神の子、自分たちの救い主の死を心から要求したのであった。しかも、方法として神にも人間にも呪いとなる十字架の死刑を求めたのである。これほど人類の歴史のなかで、不正な死刑があったであろうかと、疑わざるを得ない。彼は、ユダヤ人としても二千年もの太祖アブラハム以来の待望をかけてきた神の子、メシアであったはずである。しかし彼を死刑にしたということは人間の考えでは及びもつかなかったほどのことである。
要するに、人間が神の知恵を試みたのである。神の約束は、人の言葉によって伝えられているが、人間はそれが真実であるかどうかを言葉だけによって知ることができず、それに伴う奇跡かしるしがなければ、真実性がつかめなかったのである。アブラハムの子孫として、ユダヤ人たちは、イエズスがメシアとして奇跡かしるしをもって、十字架の死刑さえもかなぐり捨てて、十字架より降りて歩むことを要求したのである。そうであってこそ、ユダヤ民族を救うことのできる真のメシアであると承認することになる。心のどこかで、試してみようとしたのである。
イエズスは、かつて砂漠の中でサタンの誘惑に対して「あなたの神である主を試してはならない」(マタイ4・7)と言って悪魔を排斥した。そのときの群集心理は、イエズスが本当のメシアであるかどうか、偽り者であれば、なおさら十字架にかけて殺して当然なことと思えたのであろう。神の子であるかどうか、彼が自分でそう言ったので、なおさら確かめる必要がある、と考えたようである。自分たちの見る目で納得がいくように試みたのである。そのために、選んだ呪いの道具である十字架である。その場合、信仰ではなくて、認識を得るということであって、知識を得んとすること以外のなにものでもなかった。
もしやイエズスが、十字架の死刑を不当なものとしてかなぐり捨てて、メシアの威厳と権威をあらわしてその不正をただすのではないか、と期待をかけるよりも、彼が十字架の死刑をうけて、神の呪いのしるしのもとで、すんなりと死を迎えるのであれば、偽りのメシアであるという証拠が成り立って、自分たちの行為が神のよみするものとなると考えたのである。
聖書は、イエズスの死の際に太陽が暗み、地震が起こり、神殿の幕が二つに裂けたと記しているが、それらを見ても大司祭たちの不信仰は少しも変わらなかったようである。
今日の世界の人びとも、福音の言葉を読んで知ってはいるが、あらためてイエズスが自分たちの救い主であったと信ずる者は少ないのではなかろうか。キリスト信者でさえも今日では、ペトロやヨハネ、パウロのような信仰者はないであろう。キリストの死は、文明の世界においては意義がうすれて、かすんでいるようであり、バラバの釈放がもっと重大であると考えているふしがある。それは、今日の世界では、死刑廃止の運動が取り上げられ、主論になりつつあるのをみてもわかる。
二千年前、バラバかキリストかと言ったとき、キリストの代わりに無罪放免となったバラバのように、われわれ罪人がキリストの死のおかげで、神の前に洗礼の秘跡を受けることによって無罪放免のお恵みにあずかれることは、隠された無限の神秘である。人類一般において、大いに意義があるものとしてそのことを受け取らなければならない。そうであってこそ神の救いの真理が今の世界においても樹立する。一人のイエズスの死によって、人びとの無数の罪が神のみ前にゆるされているということは、人間の知恵では納得しがたいものであり、信仰の知恵で神の愛の不思議さを悟る以外にないであろう。
ヨハネ福音
《大祭司は、イエズスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエズスは答えられた。「わたしは世に向って公然と話した。わたしはいつもユダヤ人が集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜわたしを尋問するのか、わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々はわたしの話したことを知っている」》(ヨハネ18・19~21)
アンナス大司祭はイエズスに尋問したのは自分の信仰のためではなく、彼を裁くため、死刑に処する手段とするためであった。そういう目的であれば、彼が自分の教えを聞いた人びとに尋ねるがよいと言ったのは正しいことである。
今日、福音宣教の目的で、世界各地において、人びとはイエズスの教えを、キリスト教諸教派の形でのべ伝えている。宣教に従事している人びとも、自分で学んだ知識や学識、自分の信仰に応じて語っていることが多く、他の者たちよりもすぐれていて、本当のイエズスを語っていると自負していても、神の目からすれば、それは自己にとらわれているのみで誤りがある。キリストの裁判にあたって、彼の死刑を正当化するために、証人たちの証言が求められたが一つとして一致することがなかった、という。今日の福音宣教の言葉も一致性に欠けているならば、それは聖霊の能力によるものではなく、そこには神の生命一貫した一致である聖霊の働きを見ることができない。したがって信仰の一致性に欠けていれば、キリストの教会はまことの一つの神秘体ではなく人間的な組織にすぎない。
キリストは世に向って、公然として語った。今日の人びともキリストについて、公然として語っている。しかし聞く人びとの心に浸透性がないのはなぜであろうかと、問う必要があるのではないだろうか。ほんの少しでも自分の名誉と利益を求める心があれば、神の言葉であっても、神を求める心に欠けることになる。それはキリストが聖パウロの心のうちに生きていたように、語るのではないから、キリストが真に語るのではなく、単なる人間が語るのであって、聖霊の結実である神の言葉を効果的に伝えることは不可能になるのである。
キリストの裁判において、彼が始終沈黙を続けたのは、人間の言葉に対してであった。彼が答えたのは、大司祭カヤファが、神の職務的権限をつかって、彼に命じたときのみであった。彼の答えは世の終わりに、公審判があることを示して、世界の審判者が再現なさって、全人類がいやおうなしに彼の前に集められ、公審判を受けるという預言であった。この隠れた真理は、ずっと世の人びとに隠されているもので、現代の人間の自然の能力ではとうてい想像もつかないものである。
《イエズスがこう言われると、そばにいた下役の一人が「大祭司に向って、そんな返事の仕方があるか」と言って、イエズスを平手で打った》(ヨハネ18・22)
下役は、大司祭を最高位のもとあがめ、イエズスをいやしい罪人として、平手で頬を打ったのである。世の顕職は、往々にして人びとにこうびをうるものである。捕らえられたと言っても、イエズスは神の子であり、神のメシアであって、神の右の座につく最高の品位のものであった。現世的な人の目では、今もって彼の真の姿は隠されている。この世界においては見えない神の姿は、ただ神の言葉による信仰の鏡を通して見えるものである。大司祭の下役の男は、まことの信仰がなかったので、イエズスの言葉を単なる人間のものとして受け取り、それに憤慨して打ったのである。
人の心が清ければ神を仰ぎ、信仰の道を通して、神の真理を受けるのである。現代に生きる人びとも、聖書を読みその言葉を容易に理解したとしても、それがよき種として実りをもたらすよい畑、心がなければ、これといった収穫が得られない。それは不思議なことである。人の心は世の欲におおわれて、自然の能力のままに生きるので、神なしの世界をよしとして生きることになるのである。
使徒ヨハネの手紙には「目の欲、肉の欲、生活のおごり」などこの世を愛している者は、神の愛にとどまることはできないと言っている。目の欲は、人びとにとって大きな喜びとなり、幸福を提供するものである。昔から人びとは宇宙のかなたにまで幸福を探し求め、その欲望はつきることがなかった。また肉の欲は、人間がこの世に生きているかぎり、そして肉体の生命の続くかぎり、快楽として無限の対象を追求するものである。生活のおごりにしても、人は自由の世界を泳ぎまわって、権力と富貴の光栄を求めて、やむことを知らない。人間は欲に従って、いくらそれを追い求めても、そうしたことは神とは無縁のものであって、神に出会えるものではない。
神は人間の見えない世界、霊の世界、神秘の世界に存在するもので、福音を通して神の知恵や意志が人に伝えられるが、単なる人の知恵では悟りがたいものである。この隠された宝を発見できるのは、神の光と助力による信仰ひと筋の道だけである。大司祭の下役の男が、イエズスの言葉をきいて、怒りに燃えて彼を打ったのは現代の無神論者にも似通った行為であるのではないだろうか。それは恐ろしいことである。