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2017.01.04 Wednesday

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    第八章 ためらいの日々

    2016.12.08 Thursday

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       『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』 より (安田 貞治 神父著 エンデルレ書店 発行)

       

       第八章 ためらいの日々

       

       マリア庭園の発想
       みちのくの遅い春も四月半ばともなれば、窪地の残雪もようやく消え、見渡すかぎりかげろうのゆらぐ世界となった。小さな修院をとりかこむ原野に立ち、遠くそびえる大平山、近くにならぶ丘々を眺めるうち、私のうちにひとつの夢がふくらみはじめた。
       日本の風光の美は、山や川など自然の起伏に富み、四季の変化に恵まれる点に、負うところが多いと思われる。そして、そのような美の条件の具わっている所には、必ずといってよいほど、昔から宗教的な礼拝所が建てられている。私は、高野山をはじめ比叡山、永平寺その他の名刹を訪ねるたびに、その感を深めていた。ヨーロッパでも、キリスト教の有名な巡礼地は、きまってそのような場所にみられるようである。
       また私はかねてから、日本人の心情に聖母への信心を植えつけることを念願としてきた。というのも、これまでキリスト教国の人々の信仰の根づよさや犠牲心をみると、それは単なる伝統や教義的理解によって養成されたものではない、と思われたからである。多くの聖人伝を読んでも、そこに聖母への素朴で強烈な信仰を見いだすことができる。
       ヨーロッパの人々が、カトリックの純粋な信仰を、二千年近くも養い育て、保ちつづけてきたというのは、ひとえに聖母への厚い信心の賜であったに相違ない。われわれに身近な日本の切支丹の人たちにしても、あのおそるべき迫害の中で、サンタマリアへの信心によって、キリストに対する信仰を守ってきた、という事実はまさに驚嘆に値する。
       これらのことによって私は、日本の国土にキリスト教の信仰を根づかせるためには、とくに聖母の御保護と、人々の聖母に対するまことの信心とが、大きな意義をもつのではなかろうか、と気づいたのであった。
       そういうわけで、以前、司牧の任にあたっていた教会において、聖母のルルド出現百年目を記念して聖母像の制作を依頼し、庭に安置したのであった。さらに、聖母信心のために、ふさわしい庭も造りたいと考えた。とくに日本の庭は宗教的雰囲気にみちているので、そういう庭園の企画をたてた。だがいざ実行となると、資金の捻出が問題となり、信徒たちの一致した賛同は得られなかった。にもかかわらず私は、聖母の御保護に信頼して実施にふみ切った。こんにちも、その信頼が予想以上にむくいられたことに感謝し、多くの協力者のために祈りつづけている次第である。

       そのような経験があるだけに、こんどの”夢”というのも、べつに突拍子もない思いつきではなかった。
       まだ自分としては確信をもつに至らぬけれど、ここが聖母に選ばれた土地であるとすれば、祈りの園としてマリア庭園を造ることも、将来のため有意義ではなかろうか、と考えるようになったのである。…
       ”聖母に捧げる日本庭園”は、毎日の共同祈願の意向に加えられ、また聖ヨゼフのお取り次ぎをも願うようになった。
       1974年5月1日の”勤労者聖ヨゼフの祝日”を迎えて、経済的にも責任を感じる私は、御ミサを捧げる前に、一言申し述べた。
       「今日は勤労者聖ヨゼフの祝日でありますので、マリア庭園のために、とくに聖ヨゼフのご保護を願いましょう。聖ヨゼフは聖主と聖母のために、ご自分の一生涯を無にして尽くされた方ですから、天国においても、きっと、聖母のために造られる庭のために、喜んで協力してくださるに違いありません。そのための御ミサを捧げます」
       御ミサが済み、朝食を終えたあと、いつものように聖体礼拝を行った。
       祈りの後、姉妹(シスター)笹川が私に近づいてきて、次のような報告をしたのである。
       「いつも大事なことを教えてくださる守護の天使が、今日、御聖体の礼拝中に現れて、『あなたたちを導いてくださる方のお考えに従って捧げようとしていることは、聖主と聖母をお喜ばせする、よいことです。そのよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう。
       しかし今日、あなたたちは聖ヨゼフ様に御保護を願い、心を一つにして祈りました。その祈りを聖主と聖母はたいへん喜ばれ、聞き入れてくださいました。きっと護られるでしょう。外の妨げに打ち勝つために、内なる一致をもって信頼して祈りなさい。
       ここにヨゼフ様に対する信心のしるしがないことは、さびしいことです。今すぐでなくとも、できる日までに信心のしるしを表すように、あなたの長上に申し上げなさい』と言ってお姿が消えました」
       (その後、聖堂に聖ヨゼフの御像が安置されたが、現在の御像は数年後にある奇特な方が、聖母像の制作者若狭氏に依頼され、同じ桂材をもって対になるように彫られたものである)

       このようにして、私ははじめて、姉妹笹川を介して、天使の働きかけなるものを具体的に知ることになった。
       しかし、その真実性は、マリア庭園そのものが、将来天使のお告げのごとく、ほんとうに完成できるか否かにかかっていると思われた。

       

       聖母に捧げる苑

       … この時私は、教皇パウロ六世の教書”マリアリス・クルトゥス”を思い出した。1974年2月2日、主の奉献の祝日にあたり、聖ペトロの教座から全世界の司教たちに宛てて送られた、聖母崇敬に関する長文の勧告文である。その最後は「私が、神の御母に捧げる崇敬について、これほど長く論ずる必要があると思ったわけは、それがキリスト教的敬神の欠かせぬ構成要素だからです。また問題の重大性もそれを要求したのです」と結ばれ、また前文の部分では「キリスト教的敬神の真の進展には、必ず聖母崇敬の、真実で誤りのない進歩が伴うものです」と強調されている。
       私は、この山に来てから、教皇のこれらの言葉に接して、聖母崇敬の念を一層鼓舞されるのを感じたのであった。
       かつて青年時代、カトリック司祭になる志望を固めたのは、聖母信心に関する説教を聞いた際であった。
       やがて司祭となってからは、宣教の務めのうちに聖母崇敬について多く語り、またロザリオの祈りをできるだけ唱え、人にもすすめてきた。このため「古めかしいマリア崇敬論者」との陰での批判の声も、たびたび耳にしたのであった。
       近頃は、典礼刷新運動によってか、新築のモダンな聖堂の中に聖母像が見かけられぬことが多い。古い教会でも、マリア像を取り除いたり、小さな物に替えたり、出入口にまるで装飾品のように据えたりしている。
       こういう情景を目にし、”古めかしいマリア狂徒” というような嘲笑を耳にするたび、この人たちは教皇パウロ六世の「キリスト教的敬神の欠かせぬ構成要素」という言葉を、どのように受け取っているのだろうかと、胸が痛くなるのである。
       昔ある教会の司牧の任にあった時、私はやはり聖母崇敬をとくに信徒たちに植えつけようと努力した。当時、全学連の政治運動が、日本中に氾濫し、カトリック教会の中にも進歩的聖職者の先導によって浸透しつつあった。そのような機運に際して、聖母崇敬を説くことは、手痛い反撃を招くばかりであった。こちらも一歩もゆずらず防戦したが、あのはげしい攻防は今もって記憶にあざやかである。
       これらを思うにつけ、”十字架の道行” の古い絵の一場面が目にうかんでくる。十字架を負って歩むキリストの前後に、あどけない子供や少年たちが、捨札を持ったり、キリストにつけられた綱を引いたりしている。それらの群れに、聖母を軽んじる若い信徒たちの姿が二重写しに重なって見え、どうしようもない悲しみがこみ上げてくるのである。
       日本の在来の宗教はもとより新興宗教においても、土地や資財は惜しみなくその信仰の対象のために捧げられている。ところが唯一最高の神の礼拝を標榜するカトリックの聖職者や信徒が、その崇敬を表わすに適当な場所を造ることには一向心を用いない。土地があれば、まず当節流行の諸施設をつくることを考えたりする。だが、土地もまず神様から頂いたものではないのか。先日見た例では、せっかく設けられた祈りの場”ルルド”が、駐車場にされて、聖母像に近づくことも困難な有様になっていた。これでは、神に捧げるどころか、神の物まで人が奪っているのではないか。
       最近では、聖職者、信徒を問わず、”進歩的”な人々の間で、”今はもう聖堂を建てる必要はない。各家庭でミサを捧げれば充分だ。神のみことばに生きるとは、世俗社会に入って行くことである。隣人愛の奉仕をすることは、ミサに参加するよりも重要性がある”というような意見が巾をきかせているらしい。それが”キリストに生きる”という意味だ、と主張される。
       しかし、真の隣人愛というものは、まず神と結ばれた愛から発生するものである。大いなる愛に捧げる犠牲的愛に生きることによって、はじめて可能であり、単なる人間関係の横のつながりのみの隣人愛は、畢竟、肉身の愛の域を超えるものでないことをさとるべきである。
       近年、万事に”新しさ”がもてはやされ、革新とか新風の導入が安易に歓迎されるようである。教会の中でも、ミサ典礼の様式が刷新されたことが大いに喜ばれているが、もしもこの気運の行き過ぎでミサや典礼の本来の神聖さが失われてゆくならば、それは信仰生活に悲しむべき損出を招くこととなるであろう。こんちに、私たちの充分戒心すべきところと思う。
       1975年1月4日、ここの聖母像から最初の涙が流されたとき(この件については、後の章に詳述するが)、姉妹笹川に守護の天使が告げた言葉の中に次のような語がある。
       「…聖母は日本を愛しておられます。…秋田のこの地を選んでお言葉を送られたのに…聖母は恵みを分配しようと、みんなを待っておられるのです。聖母への信心を弘めてください」
       この忠告にも、私は聖母崇敬を介して神に捧げる祈りの苑、マリア庭園の重要な意義の裏づけをみる思いがしたのである。

      第十四章 教会側とマスコミ  ③

      2015.12.31 Thursday

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        『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』 より (安田 貞治 神父著 エンデルレ書店 発行)
         第十四章 教会側とマスコミ

         温泉にて
         姉妹笹川は、生来病弱で、少女時代から年に数回はあちこちの湯治場めぐりをしたものであった。こんど奥原医博のすすめで送られた矢立温泉も、馴れた古巣のごとく、傷ついた心身をあたたかく迎え入れてくれるものとなった。
         人里はなれた山奥で誰にも知られず、宿主の恩情にのみ見まもられて、静かに過ごす孤独の日々は、卓効ある温泉とともに、大きな救いをもたらした。もっとも、祈りひと筋の修道生活を求める者としては、毎日のミサもなければ御聖体もないさびしさは、何にまぎらわしようもないものであったに相違ない。
         長上である伊藤司教も、三ヶ月の滞在中に三回ほど、日帰りで見舞われたのがせいぜいであった。私も月に一、二度、百七十キロの道のりを電車とバスを乗りついで御聖体を持って訪ねる程度であった。そのたびにキリストの御受難を話題にとり上げ、精神の支えとするよう、すすめた。彼女もその黙想に力づけらえている、と答えた。
         ”精も根もつきはてた”と先にみずから表現したこのたびの試練が、どれほどのものであったかを理解するために、彼女のおかれていた状況をあらためて見直しておきたい。

         たかが一日 ”洗脳” されたという程度のことで…と考える向きもあるかもしれない。だが元来、修道院の共同生活を人並みにおくるのが精いっぱいの体力でしかなかった。しかもこの時は、五月二十一日に母を亡くした直後であった。すでにこの年・一九七六年の始めに、最愛の父の死に遭った。こんどは母…苦労をかけ通した母、虚弱に生まれ、大病、十一回の大手術、二回の臨終の秘跡などで心労を負わせつづけた母、との永別であった。悲嘆の重きは弱い身体をうちひしぐものであったに相違ない。
         その悲哀の底からいきなり東京へいわば引き立てられ、(もちろん家族は反対したが)エバンジェリスタ師の前に出頭させられたのである。なお、身近にくらすわれわれもつい忘れがちなのだが、当時彼女はまだ全聾の状態にあった。耳が全く聞こえないということは、不自由などという程度のものではないらしい。一切の音が消失している不安は、どんなものか。背後から危険がなだれ落ちて来てもわからないのである。覚えた読唇術とカンの良さで、日常生活を破綻なくこなしていたが、神経の休まることはなかったのではないだろうか。
         エバンジェリスタ師の前に置かれるや、たてつづけの説諭となる。達者な日本語とはいえ、外人の唇を読み解くには、相当緊張がつづいたであろう。しかも、思いもよらぬ超能力とやらの持ち主と決めつけられ、多くの人を欺いたとの宣告を延々と聞かされる。神と人への奉仕にのみ喜びと生き甲斐を見いだしていた者にとって、この痛烈な打撃は、張りつめた気力でもこたえて来た生命力の根底を衝くものであった。髪の毛の逆立つほどの恐怖から疲労困憊におちいったのも、無理からぬことと思われるのである。
         桜町病院の三週間も、静養よりは心身の煩わしい検査に明け暮れた。ようやく帰途についても、飛行機の着陸時の衝撃が弱い内臓にひびき、車椅子ではこび出される、という有様で、まったく試練に次ぐ試練の日々だったのである。
         そういう姉妹笹川に、矢立温泉の静寂は、何よりの安らぎをもたらしたようである。私の見舞うごとに、少しも淋しくない、と洩らし、”御受難” の話に力を得る、と言いながらも、べつに沈痛な面持ちを見せることもなかった。もともと人なつこい性格なので、宿主一家や湯治客たちとすぐに仲よくなったらしい。
         何よりのたのしみは、山の小鳥たちの訪問だった、という。窓のふちに菓子のかけらをならべておくと、次々と食べに来る。指先からもついばむ。腕や肩や頭にまでとまる。警戒心のつよいセキレイまで遊びにくるので、宿の人びとの評判になった。

          なお、一方で”守護の天使”の訪れも、エバンジェリスタ師の「もう現れることはない」との断言にもかかわらず、つづいていた。たびたび傍らに姿を見せて、優しい微笑をもってはげまし、時にはロザリオをともに唱えられた、という。
         こうして三ヶ月が経ち、さわやかな秋風とともに、体調もおもむろにととのい、修道生活に復帰できるようになったのであった。

         摂理のままに
        姉妹笹川は前の生活にもどったが、修院内の空気は以前と一変していたことは先に述べた。姉妹たちは、あれほど感銘を受けた聖母像のふしぎも、”超能力説”で片づけられてしまえば、対応の仕方にとまどい、おちつかぬ精神状態にあった。当然、”張本人”と名ざされた姉妹笹川に前と変わらぬ親愛を示すことはむずかしかったであろう。
         私自身は、聖体奉仕会報に、聖母像に関する出来事を相変わらずとり上げ、事あるたびに報告し、こうした不思議な現象は神のはたらきかけによるものではないか、と素直な受け取り方を暗にすすめていた。
         しかし、先の一九七六年五月一日の聖母像の涙の詳細を発表した時点で、伊藤司教から「このような報告は誤解を招くおそれがある。今は調査委員会にすべてをゆだねたから、調査の結果が出るまで沈黙を守ってほしい」との忠告を受けた。それ以後、しばらくはこの問題に一切ふれず、身辺雑記的なことを書きつづることにしたのであった。といっても、とくに印象的な事柄については、例外としてちょっとふれずにいられなかった。たとえば、韓国から一老婦人の訪問のあった際、聖母像から久しぶりに芳香がつよく感じられたこと、またこの婦人の話によれば、韓国では湯沢台の出来事はひろく知られ ”秋田の聖母の涙” という本はすでに二万部も売り切れ、信者は皆この奇跡を信じ、巡礼に来ることを夢みている、ということなどである。
         もっとも、聖母像の涙は、”調査委員会” が組織されて以来、ピタリと止まって、一度も流れることはなかった。そこで私は、涙の現象も終わったものと考えるようになっていた。
         調査委員会は、二年後の一九七八年に調査の結果として、秋田の聖母像の現象に関し、その超自然性について否定的結論を出した。が、そのくわしい内容は、私たちに全然知らされなかった。
         かねて、伊藤司教は姉妹たちとの会合で、委員会の結論が出たら、一も二もなく従順にそれに従うように、とさとされていた。ひとりの姉妹が ”自分の良心にそむいても、なお従うべきであろうか” と反問したところ、”この場合はともかく従うことが大切である” との指示であった。
         しかし、いざ司教自身が否定的結論を受けてみると、それを公表するまでには踏み切れず、良心にただならぬ動揺を感じられたようである。一九七九年伊藤司教は、ローマの教義聖省をみずから訪れ、これまでのいきさつを述べて、教皇庁の判断を仰ぐことにした。それに対し当時の教義聖省長官フランジョ・シーパー枢機卿(Chardinal Franjo Seper)「もし納得のいかない結論ならば、自身で再調査委員会をつくって、もう一度調べたらよい」との勧告が与えられた。
         姉妹笹川の日記がエバンジェリスタ師によってコピーを取られたことは前述したが、第一次調査委員会は、その日記のみを検討して、全面的否定の結論を出したのであった。委員のだれ一人として(エバンジェリスタ師のほかは)実地に湯沢台を訪ね、聖母像を検分し、姉妹たちの生活にふれ、その精神状況をさぐるだけの労をとることなしに、下された断定である。日記以外に何も見る必要はない、とは驚くべき安易な責任の果たし方である。第二次調査委員会が伊藤司教の委嘱(いしょく)によって一九八〇年五月に発足するにいたり、先の調査の結論が当然明るみに出されたわけで、私は以上のいきさつを知って唖然としたのであった。又、第二次調査委員会の検討において、シスター笹川の精神鑑定を行った医師は「思考の進み具合に支離滅裂がなく、観念奔逸もない。強迫観念あるいは思考内容の異常である妄想は存在しない」と鑑定文書に書いている。この文書は、後に伊藤司教がラッチンガー枢機卿に送った一九八二年三月の報告書においても引用されている。ただ、今は調査委員会の問題に長々とかかわっている場合ではないので、いずれこの件に関しては、しかるべき折りに詳述したいと思う。

         この第一次の結論を待っていた二年もの間、修院内の生活は以前同様につづいていた。   
         私は自分なりに検討をつづけつつ、ことの超自然性をみとめる方にますます傾いていた。
         その間も人びとは引きつづき、”お涙の聖母像” の膝もとで祈ることを求めて、少人数ながら各地から来訪していた。 

        第十四章 教会側とマスコミ ②

        2015.12.31 Thursday

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          『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』 より (安田 貞治 神父著 エンデルレ書店 発行)
           第十四章 教会側とマスコミ 

          さて、先の山内夫妻の訪問の四日後、五月十七日から七日間、ほかならぬエバンジェリスタ神父の指導のもとに姉妹たちの聖修が行われることになった。これは先に調査を依頼した伊藤司教がエバンジェリスタ神父の便宜をはかるためにも賛同した企画であった。私はその間、三重県鈴鹿市の教会から、話題の聖母像をめぐる出来事に関する講演を頼まれ、留守にしていた。姉妹笹川は、これも御摂理の許されたことと思われるが、ちょうど母危篤の知らせを受け、黙想第一日の終わりに郷里へ帰った。こうしてエバンジェリスタ神父には一週間も、誰はばからず弁舌をふるう場が残されたのであった。
           旅から戻った私は、姉妹たちの異様な沈黙と重苦しい雰囲気におどろかされた。数日後の日曜、ミサを終え、朝食をすませた私の居室に姉妹たちが集まって来た。あらたまって語り出すところを聞けば、エバンジェリスタ神父の黙想指導によって、自分たちの信念はぐらついてしまった。との告白である。姉妹笹川の異常性格による超能力のはたらきによって万事が作為されたことは明らかである、と専門の神学者から理路整然と説き明かされてみれば、何の反論も出せぬ自分たちとしては、その判断を信じその意見に従うほかないのである、という。
           私は咄嗟に「そんなばかなことはありえない」と答えたものの、あとから思案して、又聞きでただ否定してみても、根拠のある反論とはならない、と気づいた。やはりエバンジェリスタ師のそれほど確信にみちた意見というものを直接委しく聞いた上で、あらためて事の真相を確かめなければならない、と思い返した。姉妹たちにしても、その道の権威の自信にみちた解釈で説き伏せられれば、心情的信頼はもろくも覆(くつがえ)され、信念の失せる不安に陥っても、無理からぬこと、と今は静かにかえりみられる。しかし、この暗く閉ざされた空気の中で、私自身の心の動揺もただならぬものがあった。マリア庭園の花をみても木をみても味気なくむなしく、絶望に近い灰色がすべてを蔽(おお)っていた。自らも足元をすくわれる動揺を全く否定できず、人間の信念というもののはかなさに、暗澹たる心地であった。
           二日ほどして、私は二人の上位姉妹を伴い、エバンジェリスタ師の意見を直接たずねるべく、上京した。そして神学院の応接間に迎えられ、二時間ほど話を交わした。
           彼は、姉妹笹川の日記による研究レポートを引いて説明し、彼女はもともと生まれつきの異常性格であった上に、仏教からカトリックへの改宗以前にも超能力者であったことが判明し、改宗後もこうした超能力を発揮したものと分かった、という。聖母像の手の傷やそこから流れ出た血、汗や涙の現象すべてが超能力によって惹き起こされたものである。すなわち、彼女は自分の血を像の手に移しかえることができ、涙も自分の涙を転写したものである。などと、密教の修験の例を援用して、得々と説明された。
           聞き終わって私は、つまり今後の研究課題は、彼女のいわゆる ”超能力” と聖母像の客観的現象とにいかなる密接な因果関係があるか、ということであろう、と胸にきざんで、一応引きさがった。この高名な神学者の説は、すべてにおいて、私を納得させるに不充分なものであった。
           
           一方、教区長として責任の重圧をいよいよ感じる伊藤司教は、問題をロターリ教皇大使にはかったところ、東京大司教に頼んで調査委員会をつくり正式に調査を始めるがよい、とすすめられた。さっそく事はそのように運ばれたが、もちろんかの神学者エバンジェリスタ師はその主要なメンバーの一人となったのである。
           伊藤司教は調査委員会の指示をうけて、カトリック界の公報機関であるカトリック新聞に、”秋田の聖母像の崇敬について、公の巡礼的団体行動を禁止する” 旨の公示を出した。
           その同じ頃、一九七六年六月十三日、姉妹笹川は調査委員会のリーダーエバンジェリスタ師に個人的に呼び出され、丸一日、誘導尋問や説得に次ぐ説得、つまり洗脳を受けた。彼はすでに自分の意見として、湯沢台の姉妹たちをはじめ、各方面に、”姉妹笹川は特殊な精神分裂症であり、守護の天使を見るのは、自分で自分に語っている二重人格的構成をもつ精神分裂の一種にほかならない。指導している神父が、彼女を利用してマスコミにものを書いたり、事業の利益をはかったりしているのは、許しがたい罪である” などと言明していた。しかし姉妹笹川本人にたいしては、その歓心を買うためか、非難めいたことは一言もいわず、慈父のごとき言動を示した。姉妹笹川は次のように回想している。「弟と妹につきそわれて来た私を、エバンジェリスタ神父様は両腕をひろげてにこやかに迎えてくださいました。たっぷりの朝食をすすめられまるでお父様のような優しさに私たちは感激しました。
           それから一対一になって、午前中いっぱい、午後は五時過ぎまで、息つく間もない説得をうけました。
           私は精神異常とでも宣告されるかと、ひそかに覚悟していましたが、そのような言葉は一つも出ず、超能力の持ち主だ、と言われて、はじめて聞く話にびっくりしました。何のことかと伺うと、潜在意識のことからこまごまとと説き、すべての不思議な現象は、私が無意識に超能力をもって惹き起こしている、とのことです。
           ― では悪魔から来ているのですか。だったらどうかそんなものは取り除いてください。
           ― 悪魔ではない。あなたは知らずにしていることだから、罪はない。
           ― でも、私はそんな特別な人間になりたくありません。それに、多くの人をだましているとおっしゃるなら、おそろしいことです。どうかそんな能力を取り除いてください。
           ― ともかくあなたが悪いのではなく、最初に天使のことなども真に受けて、ことをこんなにエスカレートさせた長上に責任がある、といえます。守護の天使などというのも、あれは、あなたが自分自身に語りかけているのです。
           だから、今後はそんな出現を無視すればよいのだ、という警告でした。
           ところが、それから十一時の御ミサにあずかったところ、思いがけず守護の天使のお現れがありました。あわてて、無視しようと目をつぶったりしましたが、”恐れなくともよい” といつものお声を耳にしたとたん、何とも言えぬ心の安らぎを感じました。
           午後のお話の始めにエバンジェリスタ神父様にその報告をしたところ、今までずっと続いて来たことだから急に終わるわけにはゆかない、私の指導を受ければ、これもすべて解決する…とまた延々とおさとしがつづきました。
           私は何よりも、自分で知らぬこととはいえ、多くの人を欺く結果になっている、と言われたことに、恐ろしいショックを受けていました。おしまいには、疲労困憊で倒れそうな有様になったので、電話で知らされた妹が迎えにかけつけてくれました。
           帰途のタクシーの中で、私はもうすべての気力を失い、このまま死ぬのではないか、と考えていました。
           妹の心づくしの夕食も目に入らず、机にうつ伏せにして両手を頭にあてととき、思わぬ触感にビクリとしました。髪の毛が恐怖のあまりか、文字通り逆立っていて、汗と脂でコチコチになった毛が針金を植えたようにこわばり、指も通らぬ有様になっています。
           驚愕の一瞬のあと、こんどは急に目がさめたような反省が湧いてきました。”これは何という有様か。これでも信仰をもっているのか。すべては神様が許されて起こったことであり、すべてを神様はご存知ではないか。自分であれこれ思い煩うなど、それこそ自分にとらわれているではないか…”こう思った瞬間、胸がスーッと開けたようで、笑いたい気分さえこみ上げてきました。泣き笑いのうちに手を上げてみると、髪の毛もしなやかさを取りもどしていました。
           翌日から伊藤司教様のおはからいで、心身の検査を兼ねて桜町病院に入院しました。ベッドに横たわってみると、もう精も根もつき果てた感じで、三日三晩食べることも起きることもできず、診察もそれぞれの医師が出向いて来られる有様でした。
           三週間後、二人の姉妹の迎えを受け、修院へ戻らずそのまま矢立温泉へ療養に行きました。
           いくらか体力をとり戻して修道院に戻っても、以前とまるで違う空気が待っていました。それからは、まるで針のむしろにくらす心地でした。よく生き抜いて来た、という気が今になっていたします。でも入院中からして、体力も気力も衰え切った時は、もうこのまま召されたほうがどれほど幸せか、と何度思ったことでしょう。…」
           しかもこれは、十年の歳月に痛みをやわらげられた上での控え目な述懐である。
           表面上、人びとは親切であった。病院の医師も、面とむかっては精神異常を否定し、ノーマルだと断言しつづけたが、委員会への報告には、特殊なヒステリー性をほのめかしている。
           修道院の目上も修友も、やさしくいたわってくれるが、今や自分の信用は地に落ち、ことごとに疑いの目でみられていることを、痛いほど感じさせられる。
           指導司祭としての私の洩らした”十字架上のキリストは、誰からも信じられず、見放されていた”との一言に、必死にすがる支えを見いだしていた、とのちに告白している。
           不信の中の孤独というあらたな試練の日々が、始まったのであった。