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2017.01.04 Wednesday

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    源泉 No.164~165 『キリスト伝』より

    2013.12.27 Friday

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      『キリスト伝』より ジョゼッペ・リッチョティ著 フェデリコ・バルバロ訳
      源泉
      #164 これまであげた例は、ヨハネが、できごとを特に個人的に直接知っていて書いたという数多い証拠の、ほんの一部にすぎない。
      ヨハネは、共観福音書 にしるされていることをよく知っているが、意識してそれと違う道をたどろうとする。ヨハネはが目的としているのは、話を細かくいいつくすことではなく(20・25)、ただ、共観福音書にないことの、少なくとも一部を補おうとするところにある。計算すると、第四福音書** の話の百のうち九十二まで、共観福音書にはない。
       とはいっても、ヨハネの福音書と共観福音書との話の内容は、がっちりと一致している。ヨハネに、話を補い、正確にしようとする意図があったことは、よくわかる。受難の話の場合などが特にそうである。共観福音書では、剣の一打ちで、大司祭のしもべの右耳を切り落とした弟子はだれで、しもべはだれであったかをいわないが、ヨハネは、弟子の名はシモン・ペトロ、しもべの名はマルコス(18・10)と正確に書いている。イエズスが逮捕されてから、共観福音書によると、すぐ大司祭カヤファの邸につれていかれたようにとれるが、ヨハネは、表面上のこの不正確さをなおそうとするように、まず、「その年の大司祭だったカヤファの義父アンナのもとに、引いていった」(18・13)と知らせ、その理由もしるしている。
       共観福音書では、逮捕されたイエズスのあとにペトロがついていって、すぐ大司祭の庭に入ったようにとれるが、ヨハネは、ペトロが「もう一人の弟子」といっしょについていき、入口の前で外に残っていて、「もう一人の弟子」だけがすぐ中に入り、その弟子のとりなしで、ペトロも中に入れたことになっている(18・15~16)。ユダヤ人が邸の外にとどまっている間に、ピラトが総督館の中で、イエズスを訊問することも、ヨハネによってのみわかる。
       同様に、ヨハネは、共観福音書に書かれていない「この人を見よ!」の場面を書き残し、ピラトとユダヤ人との間の言い争いを伝え、ピラトが、むち打ちののちもイエズスを釈放したかったこと、ユダヤ人が「チェザルの忠実な家来」だと宣言することなども書き忘れない(18・23以下、19・4以下)。
       息絶えたイエズスには、ローマ式のすね折りを行わず、槍で胸をつきさしたことも、ヨハネだけが書いている(19・31~34)。かれはそのすぐあとで、こう書き加えている。「これを見た者が証明する―この証明は真実である。自分のことばが真実であることを、かれは知っている」(19・35)。事件の目撃者であったこの証人は、その少し先にヨハネだけがしるしているとおり、イエズスの母とともに十字架の足もとにいた「愛された弟子」である(19・25~27)。
       こういう詳細な、写実的な描写を読めば、最近の学者がつくりあげようとする比喩的・象徴的な仮説を裏付けるような背景は、少しも見当たらない。

      *共観福音書:新約聖書の四 つの福音書のうち、ヨハネ伝を除くマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝のこと。
      **第四福音書:ヨハネの福音書

      #165 ヨハネが、共観福音史家と違った道を歩いていることは、全体の内容からもわかる。共観福音史家は、ガリラヤでのイエズスの宣教に特に重点をおいているが、ヨハネは、ユダヤとエルサレムでの宣教を主としている。ヨハネの福音書にあるイエズスの奇跡は七つだけであるが、そのうちの五つまでも、共観福音書には載っていない。ヨハネは、イエズスの行ったことよりも、むしろかれの教養上の思想、特に、ユダヤの権威者との議論などに紙面をさいている。この議論には、ヨハネの本全体にわたってそうであるが、共観福音書には全くといっていいほど出てこない特色ある概念が出てくる。たとえば、光、やみ、水、この世、肉体などという象徴的な概念、あるいは、命、死、真理、正義、罪などという抽象的概念である。
       ヨハネの福音書は、共観福音書の伝承には従っていないが、しかし決してそれを見失っているのではない。ルナンは、ヨハネの本に、「かれ独自の伝承、共観福音書の伝承と並行する伝承」があるといい、ヨハネの立場は、「自分が扱っている問題がすでに周知のことであると知っている作者の態度である。かれは、すでに書かれている多くの事柄に賛成しつつも、自分にもそれにまさる報道があると知り、すでにあるものを全く気にせずに、自分独自のものを伝えようとする」といっているが、このことばは正しいといってよい。
       しかしそれがすべてではない。ヨハネは、ことばには表わしていないが、読者にすでに周知の事実として、間接的に共観福音書の伝承を用いているし、共観福音書にはヨハネの話によってだけ説明のつく暗示が載っている。ヨハネと共観福音書との二つの伝承は、互いにていねいに、「あなたとともにするのではないが、あなたなしにするのでもない」といっているようである。ヨハネは、イエズスの誕生やその私生活については一言も語らない。イエズスの母についても、他のマリアたちについては名をあげているのに、母マリアの名前はいわない。また、「ヨゼフの子イエズス」(1・45、6・42)という言い方を二度も用いているが、この奇妙ないいかたの説明は不必要と考えているようである。
       「イエズスは神の子キリストである」(20・31)ことを信仰させようとしてヨハネは福音書を書いたといわれるのに、この目的のためにまさに適切であると思われる「タボル山の変容」には触れていない。共観福音書には載っていない「天の神秘のパン」(6・25以下)について、ヨハネの本にはかなり長い話があるのに、最後の晩餐の時に聖体が設定されたことについては一言も触れていない。しかし、こうして書かないのは怠りのためではない。こうして表面的に背理と見えるものは、背理ではない。ヨハネは、すでに皆が広く知っている事実をくり返さないという理由だけで、自分の本を読む人々がもう共観福音書の伝承を知っていることを前提として話している。
       一方、共観福音書の伝承も、ヨハネの伝承を前提としている。共観福音書、特に前の二人は、エルサレムでのイエズスの宣教について少ししか語っていないのに、しかも、イエズスの、次のような嘆きのことばを伝えている。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打つものよ、牝鶏がつばさの下にひなを集めるように、私はいく度、あなたの子らを集めようとしたことだろう。しかし、あなたはそれを拒んだ」(マタイ23・37、ルカ13・34)。共観福音書だけでは、「いく度」ということばの説明がつかない。共観福音書では、ガリラヤにおけるイエズスの宣教だけが主として語られているからである。
       ところが、ヨハネの本には、イエズスが少なくとも四度、エルサレムに行ったことが語られているので、この「いく度」の説明がつく。したがって共観福音書も、暗黙のうちにヨハネの伝承を前提としており、こちらの側からも、「あなたとともにするのではないが、あなたなしにするのでもない」といっているようである。  

      源泉 No.161〜163『キリスト伝』より

      2013.12.27 Friday

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        #『キリスト伝』より ジョゼッペ・リッチョティ著 フェデリコ・バルバロ訳
        源泉
        #161 さて、重大なもう一つの問題について、新しい発見があり、それが誤った偏見を暴露した。現代の多くの学者にとって、第四福音書は「歴史の体面だけをかろうじて保っている神学上の定理」(ロアジイ)であるといっている。いいかえると、第四福音書は、比喩的・象徴的な本であって、神秘的抽象の世界だけを動き回っているので、その本にあるエピソードを、地理学的なわくの中に入れるのは単に表面の飾りで、中味は地形などと無関係なものだと、かれらはいうのである。
         こういう非難も、例のとおり、かれらの哲学上の偏見から出ている。その上、こういう非難をする学者の大部分は、机の前に坐っているだけで、パレスチナを詳しく調べるどころか、通りすぎさえもしていない。かれらは、考古学や歴史や地理をたいして重視しないが、これは、たいへん思慮に欠けたやり方だといわねばならない。
         ルナンでさえも、かれ一流の勝手なやり方であったとはいえ、キリストの伝記を書くにあたって、いく分はパレスチナの地理を調べている。そのルナンは、こう書いている。
         「第四福音書の歴史的概略は、思うに、ヨハネを中心とするグループがしっていたままのイエズスの生活であった。このグループは、その思い出をもとに共観福音書をつくり上げたクループよりも、創立者キリストの生活の、外部的な事情に通じていたと思う。」と。
         しかし、第四福音書を書いた人は、エルサレムの地理さえ知らないほど、パレスチナのことについては知っていないと、いわれつづけてきた。
         ところが、事実はその反対である。第四福音書を書いた人は、共観福音史家よりもその地の地理に詳しく、話の本筋にはかかわりなく省けるような点にまで、驚くほど詳細に立ち入っている。
         第四福音書にだけ出ているパレスチナの地理の指定は、少なくとも十はあって、そのうちの一つも、まちがっている証明はなく、むしろ、そのうちのいくつかは、思いがけないほど正確であることが立証されたので、その例をあげてみたい。 

         
        #162 ヨハネの本(1・28)には、他の本には出ていない「ヨルダンの向こうのベタニア」が出てくる。ところで、ベタニア(11・18)は、エルサレムからわずか「十五スタディウム」(約2800メートル)しか離れていないのである。そしてエルサレムからヨルダンまでは、約40キロもはなれているのである。これは、昔、ベタニアが二つあったことがわかって―ベトレへムが二つ、ベト・ホロンが二つもあったように―解決した。
         ヨルダンの向こうのベタニアは、渡し船を使う川の渡し場に近かったので、その名も、「ベト・オニア」(船の家)からくるのではあるまいか。ここは渡し場であったから、オリゲネスは「ベタニア」とはいわず、写本から読んで「ベト・アバラ」(渡しの家)といった。最近、この地に昔の町の廃墟が見つかった。
         ギリシア語のヨハネ福音書(5・2)では、エルサレムの「羊門」のそばに、おそらくその町の区の名からとって「ベザタ」といわれる池があったと書かれている。この池は「五つの廊」に囲まれていたとある。五辺形の廊下がそこにあったのだろうか? まことに変な形である。その変な形のことから、現代のある学者は、この話が全部比喩的なものだと解釈し、池はユダイズムの霊的な泉のかたどりであり、五つの廊は、律法の五つの本のことであるといった。
         しかし、最近の発掘によって、このまことしやかな比喩の解釈も打ち砕かれた。
         すなわちこの池は、長さ120メートル、幅60メートルの短形をしていた「四つの廊」にかこまれていたが、それ以外にもう一つの廊下が、池の真ん中に渡っていて、池を二つに分けていた。
         ヨハネ(19・13)によると、ピラトは裁判の最中、「イエズスを外に連れて行き、敷石、ヘブライ語で、ガッパタといわれる所で裁判の席についた」とある。
         この場所はどこにあるのか?何年か前の発掘によって、はっきりしたことがわかった。「ガッパタ」とは、「敷石」の訳ではなくて、同じ場所の二つの呼び方であった。
         アントニア城にあったこの場所は、最近見つかったが、考古学的にみると、アントニア城をつくったヘロデ大王時代の、建物の特色を表わしている。

        163 歴史の二つの目は、地理と年代学であるという有名なことばを裏付けるように、ヨハネの福音書を見ると、地理の上での先に見た正確さと同じ正確さが、年代の上でも見られる。
        共観福音史家が、イエズスの生活について知らせるいわば内部的な年代を、ヨハネ福音書に出てくる年代と比較してみると、共観福音史家が、はくぜんと知らせる年代を、正確にしようとして、ヨハネが機会をのがすまいとしているという印象を受ける。
         共観福音書だけを見ると、イエズスの公生活は、一年か、それよりも少なかったようにみえる。これに対してヨハネは、はっきりとちがう三つの過越祭のことをしるして、イエズスの公生活が、少なくとも二年何ヶ月かであったことを教える。
         ヨハネ(2・11)では、イエズスが行った最初の奇跡が、共観福音史家がしるしていないカナでの婚宴の時にあったとしるしている。そのすぐあと(2・13以下)、イエズスの公生活の、威厳に満ちた行動として、神殿から商人を追い払った事件を載せている。しかし共観福音史家では、この事件がこの事件がイエズスの死の何日か前のできごとであるかのようにしるされている。
         パレスチナの歴史の、よく知られているある事件から計算すると、神殿から商人を追い出したこのできごとは、「神殿建築」が始まって四十六年後のことであると、ヨハネのことばからわかる(2・20)。
         最後に、共観福音書のイエズス受難の話を読むと、イエズスが弟子とともにヘブライ人の過越祭の宴会を行ったのは、死の前日の夜であったことがわかる。その宴会は、律法によって、ニザンの月の十四日に行われることになっていたから、イエズスが亡くなったのは、ニザンの十五日に当たることになる。
         ところがヨハネの方は、イエズスが殺される日の朝、ピラトの邸の前で群れをなしてイエズスを訴えていたユダヤ人は、まだ過越祭の宴会を行っていなかったと、特に注意している。ヨハネ(18・28)によると、そのユダヤ人たちは、小羊を食べる宴会の前に、「汚れ」を受けないように、総督官邸には入らなかったという。なぜなら、異教徒の家に入ったら、その夜行う宴会が汚されるのを恐れたからである。するとこの場合、イエズスが亡くなったのは、ニザンの月の十四日となる。その前日の晩餐は、ヘブライ人の過越祭の宴会とは別のものである。共観福音書もヨハネの福音書もまちがっていないことを証拠立てる論拠には、今ここでは触れないことにする。
         しかし、ヨハネが、共観福音史家がはっきりしるさなかったことを正確にして、しかもかれだけがはっきりと年代を示していることには、もう一度注意を喚起したい。
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