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2017.01.04 Wednesday

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    62 イエズスとユダ、ヤコボの先生マリア

    2017.01.04 Wednesday

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      あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『聖母マリアの詩』上より

       

      62 イエズスとユダ、ヤコボの先生マリア(1)

       

       食事をとったり、マリアが機織りや針仕事をする部屋を見る。隣りの部屋は、ヨゼフの仕事場であるが、そこから勤勉な働く音が聞こえる。その代わりに、ここには全くの沈黙がある。マリアは、自分で織った羊毛の細長い布を縫い合わせている。幅はほぼ一メートル半、長さはその二倍で、ヨゼフのマントのために使うつもりらしい。菜園に面して開いているドアから、空色がかった紫の、小さなマーガレットのような花が咲き乱れている塀が見える。私は、その正確な名前を知らない。それを見れば秋のようであるが、木々は、まだ緑が濃く美しく、太陽のよく当たる壁についている二つの蜜蜂の巣から、蜜蜂はいちじく、ぶどうの木、割れている実で一杯のざくろの周りをブンブンと飛び回っている。
       木々の下に、イエズスは、ほぼ自分と同じ年ごろの二人の子供と遊んでいる。二人はちぢれ毛であるがブロンドではない。むしろ、一人は小麦色である。色の濃い小羊のような頭で、まん丸い小さい顔は皮膚の白さを目立たせ、紫がかった水色の大きな、非常に美しい目をしている。もう一人は、それほどちぢれ毛ではないが、色は暗い栗色で、目も栗色、顔色はもっと濃い小麦色であるが、頬はうすいバラ色をしている。小麦色の二人の中に、全くブロンドの小さい頭をしているイエズスは、もはや光輪のかかった感じがする。三人は仲よく遊んでいる。小さな車にさまざまの商品、枯れ葉、小石、かんなくず、小さな木片を載せて、商売ごっこをしている様子で、イエズスはお母さんのためにいろいろなものを買い、それらの品物を彼女のところへ持って行く。マリアは、ほほえみながら買物を受け入れる。
       それから、遊びが変わる。子供の一人がこう言い出す。
      「エジプトの脱出ごっこをしよう。イエズスはモーセ、私はアロン、おまえは…マリア(2)
      「だって、私は男だもの!」
      「それはかまわない。同じだ。お前は、マリアで黄金の仔牛の前で踊るんだ。仔牛は向こうの蜜蜂の巣にしよう(3)
      「私は踊らない。私は男で女役なんか、いやだ。私は信仰者で、偶像の前で踊ったりするもんか」
       イエズスが口を入れる。
      「じゃあ、そのことではなく、ヨシュアがモーセの後継ぎに選ばれるところ(4)にしよう。そうすれば、偶像崇拝のあんな汚い罪もないし、ユダも男になって、私の後継ぎになるのを喜ぶだろう。ねえ、うれしいでしょう」
      「そうとも、イエズス。でも、そうしたら、あなたは死ななければならない。だって、モーセはあとで死ぬから。こんなにいつも私を愛してくれる、あなたに死んでほしくない(5)
      「皆、死ぬんだ。だけど、私は死ぬ前にイエスラエルを祝福する。しかし、ここにはお前たちしかいないから、お前たちにおいて全イスラエルを祝福する」
       皆、承知する。しかし、すぐ問題が一つ起こる。あんな長い旅をしたのに、イスラエルの民はエジプトを出た時に持っていた車を、まだ持っていたか、どうか。意見は一致しない。それで母マリアに聞きに行く。
      「母さま、私がイスラエル人はまだ車を持っていたと言ったら、ヤコボはそうでないと言うの。ユダはどっちが本当か分からない。母さまはご存じでしょう」
      「そうです、イエズス。あの流浪民には、まだその車がありました。どこかに止まる時、ちゃんと車を修繕して、それに弱っている人たちを乗せたり、また、たくさんの民に必要だった食糧とか、他の物が載せられていたのです。手で運ばれていた聖櫃を別にして、他の物は、すべて車で運んでいたのですよ」
       こうして問題が解決される。子供たちは、庭の奥まで行って、そこから、詩編の歌を唱えながら家の方へ来る。イエズスは先頭に立って、銀の鈴のような声で詩編を歌う。その後ろに、ユダとヤコボとがついて来るが、聖櫃の位に上げられた手押車を支えている。けれども、アロンとヨシュアのほかに、人民の役もしなくてはならないので、紐で小さいおもちゃの車を足につけて、本当の役者のような、まじめな顔をして進んで来る。棚の下をずっと通って、マリアの部屋のドアの前に来ると、イエズスが言う。
      「母さま、通る聖櫃に挨拶して」
       マリアはほほえみを浮かべて立ち、太陽のきらめきの中に、輝かしく通る御子の前にお辞儀をする。
       それから、イエズスは、家、むしろ庭の一番端になっている小山の側に登って、小さな洞窟の上に立ってイスラエルに話す。神の命令と約束とを繰り返し、ヨシュアを指揮者として指定し、自分のそばに呼び、こんどはユダも小高いところに登る。イエズスはユダに元気をつけ、祝福する。それから板をもらい—これはいちじくの葉っぱであるが—そこに賛歌を書くまねをして、それを読む。全部ではないが相当の部分で、本当に葉っぱに書かれているかのように読んでいる。それから、自分を泣きながら抱くヨシュアにいとまを与え、小さい丘の端まで登って、そこから全イスラエル、すなわち、地面にひれ伏している二人を祝福し、それから短い草に横になって目を閉じて…死ぬ。
       ほほえみながらドアの所に立って、これを見ていたマリアは、横になって固くなった彼を見ると大声で叫ぶ。
      「イエズス、イエズス、立ちなさい。そんなかっこうやめて! あなたのお母さんは、死んだあなたを見たくない!」
       イエズスはニコニコして立って、母の方へ走って行って接吻する。ヤコボとユダもやって来る。マリアはこの二人もなでる。
      「あんな長くてむずかしい詩編と、その祝福を全部、どうしてイエズスは覚えていられるの!」とヤコボが聞く。
       マリアがほほえんで「彼は記憶力がよくて、私が読む時に注意しているから」と簡単に答える。
      「私は学校で注意しているけれど、あんな長いうめき声を聞くと眠くなる。それなら、私にも覚えられるかしら」
      「できますとも、安心して」とマリアが答える。
       だれかが面の戸を叩く。ヨゼフが足早く庭を突っ切って戸を開ける。
      「あなた、アルフェオとマリアに平和!」
      「あなたたち皆にも、祝福あれ」
       妻と一緒のヨゼフの兄である。力強いろばがひっぱる田舎風の車が道に止まっている。
      「よい旅行でしたか」
      「よかった。子供たちは?」
      「マリアと一緒に庭にいます」
       子供たちは、お母さんたちに挨拶のためにもう走って来ている。マリアもイエズスの手を引いてやってくる。
      義理の姉妹たちが接吻を交わす。
      「子供たちは、おとなしかった!」
      「非常にかわいらしく、とてもおりこうでしたよ、親戚は皆、お元気ですか?」
      「皆元気です。カナから挨拶といろいろなおみやげを送っています。ぶどう、りんご、チーズ、卵、蜜、そして…ねえヨゼフ、お前がイエズスのためにほしがっていたものをちゃんと見つけた。車の上の丸いかごの中にある」
       アルフェオの妻が笑う。その大きく開いた目で自分を見ているイエズスの上にかがんで、空の切れはしのように青く澄んだ目の上に、接吻して言う。
      「あなたのために、何を持って来たか分かる? あててごらん」
       イエズスは考えるが分からない。私は、ヨゼフにうれしい驚きを与えるために、わざと知らないふりをしているのではないかと思う。ヨゼフは丸い大きなかごを運んでくる。イエズスの前に置き、ふたを留める紐を解いて開くと、全く白い泡のような小さな羊が、きれいな干し草の中に寝ている。
       イエズスは、うれしそうにびっくりした”おお!”の声を上げて、小さな動物を早速、抱こうとするが、しかし、すぐ振り向いて、まだ地面にかがんでいるヨゼフの方へ走り寄って、感謝しながら抱いたり接吻したりする。
       二人の小さな従兄弟たちも、今、目覚めてバラ色の鼻面を上げて、お母さんを探して鳴き始めた子羊を感嘆して眺める。小羊をかごから出して三つ葉の一握りをやると、羊は柔和な目で見回して食べる。
       イエズスが言い続けている。
      「私のため! 私のため! お父さんありがとう!」
      「そんなに気に入ったのか」
      「おお、とっても! 真っ白で、清い、おお、この小さな雌羊!」
       小さな腕を小羊の首にかけ、ブロンドの頭を羊の顔に寄せて、そのまま幸せそうにじっとしている。
      「お前たちにも二頭つれて来た」とアルフェオは子供たちに言う。「だが、それは小麦色だ。お前たちはイエズスのようにきちんとしていないから、白かったら、すぐ汚してしまう。これはお前たちの群れにして一緒に番すれば、このいたずら小僧たち二人も、道で石を投げたり、ブラブラしたりしないだろう」
       二人の子供は、車の方へ走って行き、うす黒い二頭の羊を見る。
       イエズスは自分の羊と一緒に残り、それを庭に連れて行って水を飲ませ、羊は、ずっと前から知っているようについて歩く。イエズスは羊に”雪”という名前をつけて呼び、羊は、うれしそうに鳴いて答える。
       お客たちは、食卓につき、マリアはパン、オリーブ、チーズなどを運んでくる。また、よく分からないが、りんご酒か、蜜の水が入った壷も置く。ただ、薄い薄いブロンドの液体と見える。皆が食事をとりながら話しているうちに、子供たちは三頭の羊と遊ぶ。 イエズスはほかの羊たちにも、飲み水と名前を与えたかったので一緒に集める。
      「ユダ、お前のは”星”と呼ぼう。額にそのしるしを持っているから。お前のは”炎”と呼ぼう。枯れそうなエリカのような色をしているから」
      「うん。そうしよう」
       大人たちに向って、アルフェオが言う。
      「これで子供たちの絶えないけんかを解決したと思う。ヨゼフ、お前のアイデアが私を照らした。こう考えたのだ。”私の弟は、イエズスの遊び相手に小さな羊をほしがっている。私はあの二人のいたずらっ子のために二頭買おう。こうすれば、頭のこぶと膝のすりむき傷のために、他の親たちとの絶えまのないゴタゴタや苦情がなくなって、おとなしくなるだろう。学校へも行くし、それから、羊と遊んだら、静かにしていてくれるだろう”と。
       今年は、お前もイエズスを学校へ上げるべきだ。もう、その時になった」
      「私は、絶対にイエズスを学校へはやりません」と断固としてマリアが言う。このような調子でヨゼフよりも先に話すのを、初めて聞いた。
      「なぜ! 子供が、その時になったら、成人の試験を受けなければならないから、いろいろ習うべきだ…」
      「あの子は、もう知っています。そして、学校へは行きません。もう決まったことです」
      「それは、イスラエルで例のないことではないか」
      「初めてのことかもしれないが、しかし、そうするつもりです。そうでしょう、ヨゼフ」
      「そのとおり。イエズスにとって、学校へ行く必要はありません。マリアは神殿で教育を受けた。律法の知識では、本当の先生と変わらない。私も、そう望んでいる。マリアが、その先生であればよい」
      「しかしそうすれば、お前たちは子供を甘やかすのではないか」
      「そんなことはない。イエズスは、ナザレトの一番よい子です。彼が泣いたり、わがままを言ったり、逆らったり、尊敬を表わさないことなど、見聞きしたことがありますか」
      「それはそうだ。けれど続いて甘やかせば、いつかそうなるだろう」
      「子供たちを自分のそばに置く、というのは甘やかすことではない。大事なことは良識と良い心をもって、子供を愛することです。私たちはイエズスを、このように愛している。そして、マリアはこの辺の先生よりも学問があるので、イエズスの先生となればよい」
      「しかしね、そうしたら、あなたのイエズスは、大人になって蠅さえも、こわがる女の子みたいになるだろう」
      「いいや、そんなことになるはずはない。マリアは分別のある女で、男らしく彼を教育できよう。私も卑怯者ではなく、男らしい模範を与えるのを知っている。イエズスは心と体とに欠点のない子です。身も心もまっすぐな力強いものとして成長するにちがいない。安心して、アルフェオ。私たちに家族の面目を失わせるようなことはありません。私がそう決めたので、これだけで充分です」
      アルフェオが、「どうせ、マリアが決めたのだろう。そしてお前は…」
      「そうだったら悪いと言うのか。相愛している二人が、同じ心、同じ望みを抱くのはよいことではないか。愛があれば、一人が望んだら、もう一人もそれに同意する。マリアが愚かなことを望んだら、私は”いや、それはだめだ”と言う。しかし、彼女は知恵にあふれることばかり望んでいるので、私はそれに賛成し、私は、それを自分のものとする。私たちは、最初の日と同じように相愛し、命あるかぎりそうするにちがいない。そうでしょう、マリア!」
      「そうですとも、ヨゼフ。こんなことにならなければよいが、しかし、一人が死んで一人が残っても、つづいて相愛するでしょう」
      義理の姉は口をはさむ。
      「二人の言うとおりです。ああ、私が教えることができたら!…学校では、善いことも悪いことも習う。家ではよいことだけ教えることができる。もしもマリアが…」
      「お姉さん、何でしょう?どうぞ遠慮なくおっしゃってください。私が、あなたをどんなに愛しているか、ご存じでしょう、あなたの気に入ることができれば、どんなにうれしいか」
      「まあ、ただ私が言いたいことは…。ヤコボとユダとはイエズスよりも少ししか年上でない。二人は、もう学校へ行っているが、しかし何を知っているか…それに引き換え、イエズスは律法をもうよく知っている。こんなことちょっと言いにくいけれど、もし、あなたがイエズスに教えている時に、あの二人にも一緒に教えてくだされば…私としては、そうすれば二人とも、もう少しよく、知識深くなると思う…。三人は従兄弟で、兄弟にように互いに愛し合うとしたら、すばらしい。そうしてくだされば、私はどんなにうれしいか!」
      「ヨゼフも同じ意見で、また、あなたのご主人もそうだったら、私はかまいません。一人のためにも、三人のためにも話すのも同じです。一緒に全聖書をおさらいするのも喜びです。いつでもいらっしゃい」
       静かに、静かに入って来た三人の子供が、すべてを聞いて判決を待つ。
      「あいつらは、あなたの堪忍袋の緒を切らせるでしょう。マリア」とアルフェオが言う。
      「いえ、いえ。私といればいつもよい子にしています。私が、あなたたちに教えれば、よい子で聞いてくれるでしょう?」
       二人は、マリアのそばに走り寄って、腕をその首に回し、小さい頭を寄せて、ありとあらゆる ”約束” をする。
      「アルフェオ、試させてください。あなたも、この試しに不満はないでしょう。毎日、午後から夕方まで、ここに来ればよい。それで充分でしょう、信じて。私は、あきさせないで教える術を知っています。子供たちを夢中にさせると同時に、気ばらしを与えるべきです。彼らから、何かを得たいならば、彼らを理解し、愛し、また愛させるべきです。あなたたちは、私を愛しているでしょう、そうでしょう?」
       返事は二つの大きな接吻である。
      「ごらんのとおりです」
      「よし、分かった。私にはあなたに ”有難う” しか言えない。しかし、イエズスは、自分のお母さんがほかの子に気を配るのを見ればどう思うだろう。ねえ、イエズス、お前はどう思う?」
      「私はこう言います。”毎日、私の扉の前で立って気をつけ、門前を離れず、私の言うことを聞く人は幸せである”(格言8・34)。知恵の場合と同じように、私の母の友だちである人は幸せで、私は、私が愛している人が、彼女の友だちであるのはうれしい」
      「しかし、あんなことばを、だれがあの子に言わせるのか?」
      とびっくりしたアルフェオが聞く。
      「だれも、兄さん。この世の人、だれも」
       ここでヴィジョンが終わる。
            *     *     *
       イエズスが言われる。
      「こうしてマリアは、私、ヤコボとユダの先生となった。このために親戚関係のほかに、学問と一緒に育っただけでなく、一つの幹から出た三つの枝のように育った。兄弟のように、相愛したのである。イスラエルで比類のない先生、私のやさしい母が、知恵の座、”まことの知恵の座” の私の母が、私たちに、この世のためと天のための知識を教えた。私が ”私たちを教えた” というのは、私も二人の従兄弟と同じように、彼女の生徒だったからである。この世に共同生活をする、という表面の下に、サタンの探りにもかかわらず、神の秘密についての ”調印” が守られたのである。
      あなたは、このやさしい心、安らぐヴィジョンを見てうれしいでしょう。今は平和の中に、イエズスはあなたとともにいる」

       


      (1)ルカ2・40。
      (2)モーセの従兄弟で癩病にかかった。
      (3)脱出32章参照。
      (4)荒野27・12~23、第二法31~34。
      (5)”未来の使徒、アルフェオの子、小さなユダが答える”と欄外に著者が書いている。

      十字架の神秘 5

      2016.12.11 Sunday

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        第二章 十字架の追想 

         

         《民衆は立って見つめていた。議員たちもあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで選ばれた者なら自分を救うがよい」》(ルカ23・35)
         民衆はただ立って十字架のイエズスを見つめていたという。イエズスがどのようにふるまって死ぬのか、それは人間的な関心を持った見つめ方であった。その目には信仰の光がさし込んではいなかった。それは自分が救われることを願っての見方ではない。世の終わりまで人びとは、十字架を見つめても、自分の救いのために何の役にも立たないと言うであろう。キリストの苦しみは一つ一つ人びとの救いの恵みの源泉になるものであるのに、それを無駄に見過ごしているのであった。しかし議員たちは、もっと悪い行動をとった。自分たちの救いの恵みを拒否したのである。他人を救いながら、自分自身を救うことのできない愚かさとあざ笑ったのである。それは単に人間的生命を救うことにかぎっての言葉である。もともと人間的生命は、神からの死の宣告を受けているのである。サタンが、死ぬことはないと楽園で人祖をだましたためであった。議員たちは、衆議会員であったから、司祭衆であり、ユダヤ教の長老たちであった。彼らは宗教、律法、神の代理人として自らを任じていたが、その宗教は、自分自身を救うことに始終していた。彼らはただ自然的生命を守ること、この生命を生きぬくことを信条とする立場からキリストの十字架の死を眺めていたのである。キリストの救いと死はそれらを目的としていなかった。
         彼らの宗教と信仰は神の生命に、永遠に生きる幸福に結びつくことのないものであった。それは偶像の信仰と同じことであり、キリストに対しても自分自身を救うことを要求する。キリストにおいて、自分を救うこととは何であるか。それは御父の聖意を果たすことであり、十字架にかかって、人びとの罪を贖って死ぬことであった。彼らの言うように、十字架から降りて自然的生命を救ったとしても結局は自分を救うことができない。死ぬことによってキリストは、すべて改心する人の魂を救い、自分の霊魂をも救うことになった。しかし、この真理を眺めて、人びとはあざ笑うのであった。
         真理は厳しければ厳しいほど、人びとの心はそれに反して偽りの暗闇に陥るのである。

         

         《兵士たちは、イエズスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自一つずつ渡るようにした》(ヨハネ19・23)
         イエズスの衣服を四等分に分けたのであると言っているが、将来の教会が同じ福音を信じていながらも、分裂することを前もって示していると想像することができる。世界が終わるまでイエズスの教会が互いに分裂し、対立して争う運命であるかのようである。それぞれの教会はイエズスの福音の言葉を衣のように分け合って成立しているが、唯一の聖なる信仰がなければ単なる教訓にすぎないものになる。彼を十字架につけた兵士たちは、信仰の持ち主ではないので、ただ役目として働いたのである。今日の不信仰なる者と同様に、人間的欲得の行為に刺激されてイエズスの衣服を分割し、自分たちの金銭的利益をはかって、それを分け合うのである。
         キリストの救いの福音にも、幾世紀もの長い間に人間的思想が交錯しあって、そのつど分裂を生み、多くのキリスト教会なるものが出現している。神よりの信仰は純粋であれば一つであるが、世紀が進むたびごとに、対立し、分裂がひどくなっている。キリストの救いの恵みは、彼が言っているように分かれ争うところにはないもので、キリストの体である教会もまことに一つであって、十字架にかけられていると思われる。教会はキリストの神秘体ではあるが、衣服ではない。彼の福音と言っても、神の言葉は人間がつかう言葉を用いて表現しているので、いわば人間の衣服のようなものである。衣服を分割しても、神の恵みの本質は人によって分割されるものではない。人間の思考や思想を信仰に混入すればするほどそれだけ不純になり、分裂と対立を生むものである。分かれ争うところにはキリストの体も姿も見えなくなる。神の本来の姿というものは人間の思惑によって分割されるものではない。信仰といってもさまざまな形態があって、救いの恵みをあたかも彼の衣服のように分割して、自分のものとしたとしても、それは失われるものである。
         キリストの衣服でも、信仰のない兵士たちには霊的救いのためにはなんら役に立たなかった。今日の人びとも教会に入籍してその一員となって生活を営んでも、信仰のない者には救いの恵みがないのである。世界的にいかに大きな働きをして、大いなる役割を果たしたとしても、信仰のないものは、十字架の下で、キリストの衣服を分け合った兵士たちと同様で大差はない。聖書の言葉を神のものとしてのべ伝えても、信仰に生きることがないものには、なんの役にも立たない。本当の信仰は、神の言葉を受け入れ、愛をもって守ることによって証明されるが、キリストの衣服を自分の利益のために分け合っていた兵士のように、福音の宣伝を自分の利益と名誉のために使うのであれば、その人は救われることがないであろう。

         

         《イエズスは、母とそのそばにいる愛する弟子を見て、母に「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」と言われた》(ヨハネ19・26)
         釘づけにされていたイエズスは、手や足、全身が火炎に包まれているかのような激痛のさなかにあって、母とかたわらに立っている弟子を眺めて言われた、そのもの静かな言葉には驚きを感じる。それは人間のものではなく、神の言葉であった。婦人よと呼びかけるが、かつて神が人祖アダムとエバを楽園から追放されたとき、蛇に対して、新しい婦人を出現させて、蛇の頭を踏みくだかせることを宣言した「婦人よ」という言葉に思いあたる。また、イエズスが公生活の初めに、カナの婚宴の場において、最初の奇跡をおこなうにつれて、自分の母なるマリアの願いを受けいれて、婦人よと呼びかけた。今、十字架のもとに立っている母を眺めて、婦人よ、と聖書で三たび呼んでいることに重要な意義がある。つづいて、「ごらんなさい」と言って彼の愛する弟子を指名して、これはあなたの子であると言った。彼が十字架の上に流した血を、真っ先に十字架の下に立っているヨハネにまず注いで、彼を救いにあずからせ、彼女の子としたのである。十字架の彼の血が流されて、罪が洗われなければ、誰も神の子となってキリストの兄弟に結ばれて、聖母の子に生まれ代わることはできない。この神秘である霊的真理を、イエズスは十字架の上からみごとに遺言として与えたのである。これはまことに意義深い信仰の奥義である。
         キリスト信者は、イエズスの十字架の血の神秘に生かされてこそ彼の母を自分の母としていただけるものである。彼の血が、神の計画の神秘の働きによって、マリアの子となる恵みをいただくのであって、それは自然の働きではない。イエズスの人となりは、母マリアの胎内に、聖霊の働きによって自然の肉体をもった人間として宿ったのである。罪人であるわたしたちは、神の御子の血によって罪から贖われ、清められたのちに、聖霊によって、聖母の霊的子となることを示している。これこそ隠された十字架の神秘である。この神秘の奥義は、自然の知恵では悟ることなく、神だけが知っているので、神にはなにものも隠されていない。いったん罪に陥った人間がゆるされて救われることは、サタンにとっては、この上もないねたましいことであり、恐ろしいことのように思われる。この神秘を通して、救い主の母、マリアがわたしたちの霊的な母となるのであってサタンはその神秘に恐怖を感じている。創世記の言葉によれば、神の御子はその母と子らによって、サタンの頭を世界の終わりに一緒に踏みくだき、キリストの神秘体が完全に勝利をおさめるのである。
         神の言葉に従ってわたしたちが、聖母を霊における母として信仰のうちにいただくということは、どれほど素晴らしいことであろうか。聖母のみ心に自分をささげることは、この婦人に愛されることであり、それと同時に天の御父が聖母と共にいらっしゃる愛のうちに包まれることになる。そうでなければ、神の国、天国は約束されていないのである。
         十字架の下に立っていた婦人は、とめどなく涙を流しながら、御子のしたたる血を眺めて共に苦しみ、罪人であるわたしたちの罪の霊魂が贖われることに協力し、わたしたちを霊的に産むのであった。わたしたちも信仰のうちに、この婦人の涙、聖母の涙を思い起こして見ることができるが、信仰のない者にとっては、世に隠されたこれらのことは目に見えないものなので思いつくこともないのである。

         

         《それから弟子に言われた。「見なさい、あなたの母です」。そのときから、この弟子は、イエズスの母を自分の家に引き取った》(ヨハネ19・27)
         わたしは若いころからカトリックの司祭としてこの聖書の言葉を引用して、何回となく人びとに、聖母がわたしたちの母であると語ってきたのである。多くの人はそれを聞いて一応うなずくことがあっても、それはそれとして通り過ごしたであろう。今日、あらためて聖書の言葉を読むにつれて、より深い意義に感動をおぼえるが、これを信仰の真理として受け取って、二千年前のヨハネ個人の出来事のように、わたし自身が信仰をもって受け取らなければならない。聖母の意義を感じていない者は、それほど宗教的意義があるものとして受け取ってはいないだろう。
         教会がキリストの神秘的身体であるとすれば、キリストはその頭であり、わたしたちがその肢体として結ばれている。自然の形態でも頭を産んだ女は当然その肢体をも次つぎと産むのである。だからわたしたちを産んだその婦人を母と呼ぶのである。聖母は、今もキリストの神秘的肢体を産むのであれば、母たる真理に適合する。罪人であるわたしたちを、新しくキリストの神秘体として世の終わりまで産むことは、ある意味で苦しみの連続性を思わせるのである。人祖エバに対して神は「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む」(創世記3・16)と言って、聖母の前じるしを告げているようだ。神秘体の頭であるキリストを産んだ母は、彼に愛された弟子をも産むのである。
         この弟子は、そのときから「イエズスの母を自分の家に引き取った」とされているが、彼の霊魂は神の家となって、主の母を受け入れて信仰したのである。イエズスの言葉は、この真理に適合する信仰をつくるものであって、彼の愛はすべてを与え、母さえもわたしたちに与えるのである。単なる自然の出来事のように見せかけてはいるが、神の聖霊の働きによって、霊的に完成される母と子との深い関係である。使徒ヨハネは神の子の言葉を聞いて、神殿となるべき自分の霊魂の家に、信仰と愛のうちにその母を引き取ったと見るべきである。
         これらのことをふまえて考察すれば聖母を疎外する者、無関心な者は、自分の信仰の家たる心に、彼女を引き取ることがないので、神の言葉に適合してはいない。イエズスが愛する弟子に言った最後の言葉であるだけにきわめて重要である。世界にはキリストを信じる者がたくさんあるけれども、彼の母、聖母をヨハネのように引き取っている者はいまだに少ない。
         ヨハネはこのときから聖母を霊的な産みの母として受け取って聖霊の働きに受諾したのである。イエズスが十字架の上から、「見よ!」と呼びかけて、「母がここにいる」と指摘して、神の言葉のうちに、母の生命に生きる子の存在を確立させたのであった。母と子との間の生命のつながりほど親密な関係は他になく、それは神が永遠にわたって結んでくれた生命の秩序であった。十字架のイエズスは、わたしたちにも、彼を産んだ母が、わたしたちの母親であることをくしくも認識させる言葉として残して、安心して世を去るのであった。

        第八章 ためらいの日々

        2016.12.08 Thursday

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           『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』 より (安田 貞治 神父著 エンデルレ書店 発行)

           

           第八章 ためらいの日々

           

           マリア庭園の発想
           みちのくの遅い春も四月半ばともなれば、窪地の残雪もようやく消え、見渡すかぎりかげろうのゆらぐ世界となった。小さな修院をとりかこむ原野に立ち、遠くそびえる大平山、近くにならぶ丘々を眺めるうち、私のうちにひとつの夢がふくらみはじめた。
           日本の風光の美は、山や川など自然の起伏に富み、四季の変化に恵まれる点に、負うところが多いと思われる。そして、そのような美の条件の具わっている所には、必ずといってよいほど、昔から宗教的な礼拝所が建てられている。私は、高野山をはじめ比叡山、永平寺その他の名刹を訪ねるたびに、その感を深めていた。ヨーロッパでも、キリスト教の有名な巡礼地は、きまってそのような場所にみられるようである。
           また私はかねてから、日本人の心情に聖母への信心を植えつけることを念願としてきた。というのも、これまでキリスト教国の人々の信仰の根づよさや犠牲心をみると、それは単なる伝統や教義的理解によって養成されたものではない、と思われたからである。多くの聖人伝を読んでも、そこに聖母への素朴で強烈な信仰を見いだすことができる。
           ヨーロッパの人々が、カトリックの純粋な信仰を、二千年近くも養い育て、保ちつづけてきたというのは、ひとえに聖母への厚い信心の賜であったに相違ない。われわれに身近な日本の切支丹の人たちにしても、あのおそるべき迫害の中で、サンタマリアへの信心によって、キリストに対する信仰を守ってきた、という事実はまさに驚嘆に値する。
           これらのことによって私は、日本の国土にキリスト教の信仰を根づかせるためには、とくに聖母の御保護と、人々の聖母に対するまことの信心とが、大きな意義をもつのではなかろうか、と気づいたのであった。
           そういうわけで、以前、司牧の任にあたっていた教会において、聖母のルルド出現百年目を記念して聖母像の制作を依頼し、庭に安置したのであった。さらに、聖母信心のために、ふさわしい庭も造りたいと考えた。とくに日本の庭は宗教的雰囲気にみちているので、そういう庭園の企画をたてた。だがいざ実行となると、資金の捻出が問題となり、信徒たちの一致した賛同は得られなかった。にもかかわらず私は、聖母の御保護に信頼して実施にふみ切った。こんにちも、その信頼が予想以上にむくいられたことに感謝し、多くの協力者のために祈りつづけている次第である。

           そのような経験があるだけに、こんどの”夢”というのも、べつに突拍子もない思いつきではなかった。
           まだ自分としては確信をもつに至らぬけれど、ここが聖母に選ばれた土地であるとすれば、祈りの園としてマリア庭園を造ることも、将来のため有意義ではなかろうか、と考えるようになったのである。…
           ”聖母に捧げる日本庭園”は、毎日の共同祈願の意向に加えられ、また聖ヨゼフのお取り次ぎをも願うようになった。
           1974年5月1日の”勤労者聖ヨゼフの祝日”を迎えて、経済的にも責任を感じる私は、御ミサを捧げる前に、一言申し述べた。
           「今日は勤労者聖ヨゼフの祝日でありますので、マリア庭園のために、とくに聖ヨゼフのご保護を願いましょう。聖ヨゼフは聖主と聖母のために、ご自分の一生涯を無にして尽くされた方ですから、天国においても、きっと、聖母のために造られる庭のために、喜んで協力してくださるに違いありません。そのための御ミサを捧げます」
           御ミサが済み、朝食を終えたあと、いつものように聖体礼拝を行った。
           祈りの後、姉妹(シスター)笹川が私に近づいてきて、次のような報告をしたのである。
           「いつも大事なことを教えてくださる守護の天使が、今日、御聖体の礼拝中に現れて、『あなたたちを導いてくださる方のお考えに従って捧げようとしていることは、聖主と聖母をお喜ばせする、よいことです。そのよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう。
           しかし今日、あなたたちは聖ヨゼフ様に御保護を願い、心を一つにして祈りました。その祈りを聖主と聖母はたいへん喜ばれ、聞き入れてくださいました。きっと護られるでしょう。外の妨げに打ち勝つために、内なる一致をもって信頼して祈りなさい。
           ここにヨゼフ様に対する信心のしるしがないことは、さびしいことです。今すぐでなくとも、できる日までに信心のしるしを表すように、あなたの長上に申し上げなさい』と言ってお姿が消えました」
           (その後、聖堂に聖ヨゼフの御像が安置されたが、現在の御像は数年後にある奇特な方が、聖母像の制作者若狭氏に依頼され、同じ桂材をもって対になるように彫られたものである)

           このようにして、私ははじめて、姉妹笹川を介して、天使の働きかけなるものを具体的に知ることになった。
           しかし、その真実性は、マリア庭園そのものが、将来天使のお告げのごとく、ほんとうに完成できるか否かにかかっていると思われた。

           

           聖母に捧げる苑

           … この時私は、教皇パウロ六世の教書”マリアリス・クルトゥス”を思い出した。1974年2月2日、主の奉献の祝日にあたり、聖ペトロの教座から全世界の司教たちに宛てて送られた、聖母崇敬に関する長文の勧告文である。その最後は「私が、神の御母に捧げる崇敬について、これほど長く論ずる必要があると思ったわけは、それがキリスト教的敬神の欠かせぬ構成要素だからです。また問題の重大性もそれを要求したのです」と結ばれ、また前文の部分では「キリスト教的敬神の真の進展には、必ず聖母崇敬の、真実で誤りのない進歩が伴うものです」と強調されている。
           私は、この山に来てから、教皇のこれらの言葉に接して、聖母崇敬の念を一層鼓舞されるのを感じたのであった。
           かつて青年時代、カトリック司祭になる志望を固めたのは、聖母信心に関する説教を聞いた際であった。
           やがて司祭となってからは、宣教の務めのうちに聖母崇敬について多く語り、またロザリオの祈りをできるだけ唱え、人にもすすめてきた。このため「古めかしいマリア崇敬論者」との陰での批判の声も、たびたび耳にしたのであった。
           近頃は、典礼刷新運動によってか、新築のモダンな聖堂の中に聖母像が見かけられぬことが多い。古い教会でも、マリア像を取り除いたり、小さな物に替えたり、出入口にまるで装飾品のように据えたりしている。
           こういう情景を目にし、”古めかしいマリア狂徒” というような嘲笑を耳にするたび、この人たちは教皇パウロ六世の「キリスト教的敬神の欠かせぬ構成要素」という言葉を、どのように受け取っているのだろうかと、胸が痛くなるのである。
           昔ある教会の司牧の任にあった時、私はやはり聖母崇敬をとくに信徒たちに植えつけようと努力した。当時、全学連の政治運動が、日本中に氾濫し、カトリック教会の中にも進歩的聖職者の先導によって浸透しつつあった。そのような機運に際して、聖母崇敬を説くことは、手痛い反撃を招くばかりであった。こちらも一歩もゆずらず防戦したが、あのはげしい攻防は今もって記憶にあざやかである。
           これらを思うにつけ、”十字架の道行” の古い絵の一場面が目にうかんでくる。十字架を負って歩むキリストの前後に、あどけない子供や少年たちが、捨札を持ったり、キリストにつけられた綱を引いたりしている。それらの群れに、聖母を軽んじる若い信徒たちの姿が二重写しに重なって見え、どうしようもない悲しみがこみ上げてくるのである。
           日本の在来の宗教はもとより新興宗教においても、土地や資財は惜しみなくその信仰の対象のために捧げられている。ところが唯一最高の神の礼拝を標榜するカトリックの聖職者や信徒が、その崇敬を表わすに適当な場所を造ることには一向心を用いない。土地があれば、まず当節流行の諸施設をつくることを考えたりする。だが、土地もまず神様から頂いたものではないのか。先日見た例では、せっかく設けられた祈りの場”ルルド”が、駐車場にされて、聖母像に近づくことも困難な有様になっていた。これでは、神に捧げるどころか、神の物まで人が奪っているのではないか。
           最近では、聖職者、信徒を問わず、”進歩的”な人々の間で、”今はもう聖堂を建てる必要はない。各家庭でミサを捧げれば充分だ。神のみことばに生きるとは、世俗社会に入って行くことである。隣人愛の奉仕をすることは、ミサに参加するよりも重要性がある”というような意見が巾をきかせているらしい。それが”キリストに生きる”という意味だ、と主張される。
           しかし、真の隣人愛というものは、まず神と結ばれた愛から発生するものである。大いなる愛に捧げる犠牲的愛に生きることによって、はじめて可能であり、単なる人間関係の横のつながりのみの隣人愛は、畢竟、肉身の愛の域を超えるものでないことをさとるべきである。
           近年、万事に”新しさ”がもてはやされ、革新とか新風の導入が安易に歓迎されるようである。教会の中でも、ミサ典礼の様式が刷新されたことが大いに喜ばれているが、もしもこの気運の行き過ぎでミサや典礼の本来の神聖さが失われてゆくならば、それは信仰生活に悲しむべき損出を招くこととなるであろう。こんちに、私たちの充分戒心すべきところと思う。
           1975年1月4日、ここの聖母像から最初の涙が流されたとき(この件については、後の章に詳述するが)、姉妹笹川に守護の天使が告げた言葉の中に次のような語がある。
           「…聖母は日本を愛しておられます。…秋田のこの地を選んでお言葉を送られたのに…聖母は恵みを分配しようと、みんなを待っておられるのです。聖母への信心を弘めてください」
           この忠告にも、私は聖母崇敬を介して神に捧げる祈りの苑、マリア庭園の重要な意義の裏づけをみる思いがしたのである。

          十字架の神秘 6

          2016.12.07 Wednesday

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            『十字架の神秘』安田貞治神父著(緑地社発行)

            第二章 十字架の追想より

             

             ルカ福音

            《「われわれは、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない」》(ルカ23・41)
             犯罪者の一人は、自分の罪を認め十字架の苦しみを当然のこととして受けている。これは神の正義を認めていることになる。罪の痛悔は真理を愛しているといえる。しかしイエズスは、なんら悪をおこなってはいない。むしろ善をおこなっている。それでも犯罪者と同じく苦しみ、不正を平然として受け入れ十字架の苦しみを受けている。なぜそのような不合理が実現しているのか。イエズスの十字架は、人びとの罪を贖うためであって宗教的犯罪かのように仕立てられているが、内心は償いとして神にささげられている。
             イエズスは律法にそむいた者、神殿の破壊者、偽りのメシアとして訴えられていた。同じように神を求めているとはいえ、そこには明白な信仰の相違があった。それは偶像の信仰と神に嘉せられる真の信仰との相違であったろう。偶像の信仰とは暗闇の信仰のことであり、人間に仕える利欲への信仰である。神への聖なる信仰は、あくまでも神に属するものである。真理の光といえる神の光のなかに歩むものである。偶像の信仰は人間的な欲のなかに、暗闇のなかに、残酷な仕打ちのなかに歩むものである。これは利益を求めて真理を憎むものであり、不正を喜び、不正を愛するものである。キリストの十字架は、不正を愛する者たちのしわざであったが、犯罪者の一人は、キリストの十字架を見て、これこそ不正な十字架刑と見る。それに反して、ユダヤ教の司祭たちは、当然で正当な十字架刑と喜び合うのであった。そのようなことが今日でもあってよいものであろうか。しかし、そのようなことは今日もなお多い。偶像の信仰があるかぎり、真理を憎む者は絶えることがないのである。このような人でも自分は神に仕えていると思って、真理を迫害していることに気づかない。この事実こそ暗闇に仕える偶像の信仰である。それは自分の傲慢によって獣になり下がり、神の地位を奪おうとする信仰であり、単に自分自身に仕える信仰であって、神に奉仕する謙遜な信仰とは、根本的に違っている。それは自分の傲慢によって他を制圧する権力であり、へりくだって十字架にかかったイエズスの御父の思召しに生きる信仰ではないのである。イエズスの人性はすべて信仰の従順の形体をとっている。それはわれに倣えとペトロにすすめた信仰の従順の徳であった。イエズスにとっても御父の聖意を果たすことが根本になければ十字架は無意味であろう。多くの人は十字架を眺めて、神を礼拝しているといっても、わが身に十字架の屈辱がふりかかり、苦しみを受けることになれば、それを拒否してしまう。そのことはただキリストだけに十字架を求めて喜んでいるようなものである。わが身を十字架につけてこそ本当にキリストを礼拝する信仰であるが、右側の盗賊はこの信仰を見つけた最初の人であった。

             

             《「イエズスよ! あなたが御国においでになるとき、わたしを思い出してください」》(ルカ23・42)
             彼の願いは、イエズスが御国において、このわたし、犯罪者を思い出してください、ということであった。イエズスが彼を思い出すということ、これは何であろうか。自分のような者でも、憐れみをかけてくださいとのことのようである。イエズスの思い出は、神の思い出である。それには内的な精神のつながりがなければならない。イエズスが知らないという者は聖書によれば、そとの暗闇に捨てられた者である。わたしはあなたたちを知らないと審判のときに仰せになる。それはイエズスと内的な関係、霊的生命のつながりのない者にかぎる。神の生命につながりがあってこそ救いにあずかる。十字架にかかった犯罪者は、イエズスに一筋の内的かかわりを求めて、思い出してくださいと願うのである。それは信仰のかかわりであった。このように、救われた者は信仰によって、イエズスと結びつくことが必要である。わたしたちも、復活し昇天なさったイエズス、神の右の座につかれているイエズスと一筋の内的かかわり、霊的生命のかかわりに生きていなければたすかりが得られない。救われる兄弟に対して、残酷なふるまいをなす者は、神の愛に生きることはないのである。この犯罪者が願ったことを、われわれも願うのでなければ、天国に入れないであろう。主よこのわたしを思い出してくださいと祈る必要がある。それは罪のことではなくて罪を悔い改めたことを思い出してくださいと言うのである。往々にして人びとは神に対して、自分が罪人であったことを悔い改めない。多くの人びとは、自分の罪を認めないばかりか、自分はこれでよしと考えている。それは神に対しての傲慢心であり神を見くだしているのである。自分を尊び他人に誇り、無限の神の働きの尊さを忘れ、自分の意欲を重んずるのは、人びとの傲慢のあらわれである。神のはからいを無視して、自分の意欲を自由なる世界に打ち立て自分をあがめる偶像の信仰である。十字架にかけられた犯罪者は神のはからいを優先して、自分の意欲を願うのではなく、自分に課せられた罪の償いに甘んじ、とうて神の国に入る資格がないと思って、イエズスの思いやり、憐れみを願うのである。神の意志を尊重するのが真の信仰である。

             

             《するとイエズスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと共に楽園にいる」と言われた》(ルカ23・43)
             イエズスのこの言葉は確かである。犯罪者の魂は、すっかり罪がゆるされて、イエズスと共に楽園に入るとの約束である。この言葉は人間の自然の善業も、人間の精神面の誇張も、自分を善人とみなしている人も、イエズスの楽園に入る資格がないと証ししている。それだけで自分の自然性を誇っている者があれば、誰も神の国に入ることはできない。人は誰でも自分の罪は認めにくく、自分の善を誇ってしまう。人間の理性とはそのように自分が善であるかのように働き、そう見せたいものである。しかし神に対する畏敬の信仰がなければ、人間は自分が罪のなかにあることを認識しようとしない。人間の理性は、自分はよいものとして働くが、神の働きを認めようとしない。アダムはこの理性の知識の実を、神のはかりしれない知恵よりも、重んじて食べた最初の人であった。人間は理性の知識の実をみだりに味わえば、神の知恵から離れるものである。人間が神の国に入れるのは、父の思し召しをおこなってこそ可能なのである。神の御子は、マリアを通して人となり、父のご意思であるみ旨をおこなって神の国、父の国に入れることをわたしたちに教えたのである。自然的理性によってだけでは、神の国に入ることはできない。
             この自然界に住むために働く理性だけでは霊的な神の国があることさえわからない。神の言葉によって、神の国と、思召しが人間に提供せられるのである。神の言葉は生きて働くもので信仰によって神の言葉に従順になれるのである。自分を愛して生きるものは、信仰によるよりも理性に重きをおくので自己中心になりがちになる。神を愛するならば信仰によって、神の言葉、神のはからいを受け取るので従順になり神の愛に一致して生きることになるのである。十字架にかかりながらイエズスに願った犯罪者は、救い主であるイエズスをそっくり受け入れて依り頼んだことによって、神の言葉を疑いなく受け入れたのである。この信仰によって彼は救われた。自分の業、善、理性によって救われたのではなく、イエズスの贖罪によって贖われた最初の人である。この救いの真理を見逃しては救いがない。人間の理性は、神の真理をよそにして働けば、ひとりよがりの傲慢に陥り、神に反逆するものとなるのである。

             

             

            十字架の神秘 4

            2016.12.06 Tuesday

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               マルコ福音

               

               《それから、ある者はイエズスにつばを吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また下役たちは、イエズスを平手で打った》(マルコ14・65)
               

               現時の国家法の裁判では、神を冒涜するというような刑法は成り立っていない。イエズスの時代のユダヤ教の裁判においては、最大の悪、罪は唯一なる神を冒涜することであた。その罪に値する者があれば、直ちに石打ちにして殺されたものである。
               大司祭をはじめとして最高法院の人たちが、ナザレのイエズスを神を冒涜する者として死刑の判決を下したので、その後、彼をどう扱うか、民衆たちの間に起こったことが記されている。手を縛られたイエズスを囲んだ民衆にとって、まずつばきを吐きかけて、神から捨てられたもの、呪うべきものとして宗教的最高の権威から捨てられたものを侮辱するのは当然なことであった。これらの人びとは、途方もない侮辱をあびせかけるのが、かえって神を礼拝する行為だと考えたのであろう。またある者は、イエズスに目隠しをして、こぶしで殴りつけたとあるが、イエズスの目を見るのは良心がゆるさないので、目隠しのまま打ち叩き、誰が叩いたのかを預言してみろ、と言い放った。
               預言というものは、神の全知なる知恵に照らされて、神のはからいを前もって預言するものであって、人が尊敬をもって受けなければならないものである。大司祭から見はなされ、ユダヤ教から破門され死刑に定められたイエズスを見る大衆の目は、少しの同情もなく、かえって憤激の的として、怒り狂うのであった。
               かつてのイエズスの言葉、福音の教え、無数の善業、病人の癒しの奇跡、何千人もの飢えを満たしたパンの奇跡さえもなんら役に立たなかった。それどころか、かえって偽りのメシア、神殿を破壊し、神を冒涜したとの大司祭の宣告によって、民衆は裏切られたとの感情を燃え立たせたのである。
               大司祭の下役どもは、イエズスの頬を平手で打っていたと聖書に告げられているが、そのときはすでにペトロをはじめ、使徒の仲間はイエズスを捨てて逃げてしまっていた。一人の同情者、好意をもつものもなく、ことごとくわれ関せずとの態度をとっていた。
               今日の世界でごミサの聖祭が毎日カトリック教会でおこなわれているが、ご聖体の聖変化の言葉に「あなたがたのために、わたされるわたしの体である」というのは、この侮辱されているキリストのの体を連想させるのである。現代の典礼学者や神学者たちは、聖体の秘跡は礼拝の対象となるものではなく「とって食べるものである」と説明しているときくことが多いが、それはパンの形色のみをさして言えることであって、深い信仰の霊的意義に欠けたもののように思われる。イエズスの体は、今や新しい典礼と神学によってしばられているという思いがする。そのような誤った思考が横行しているとすれば、大衆の宗教的行為は、聖体の秘跡に隠されているイエズスに、つばきをかけた民衆と同様であると思わねばならない。

               

              ルカ福音

               

               《これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエズスをヘロデのもとの送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。彼はイエズスを見ると、非常に喜んだ》(ルカ23・6~8)
               ピラトは、自分のこれまでの調べによって、イエズスには死刑に値する罪がないことを知って、ローマの法律に照らして、彼を殺すことはできないと人知れずに良心的呵責をを感じていた。人は誰でも、自分の良心にそむいて行動するのは罪だとわかっている。ピラトもできるだけ罪にならないようにふるまって、イエズスがガリラヤ人だと知って、それならヘロデ王の支配下にあるので、これさいわいとばかりに、ヘロデ王の権利を尊重した形で、イエズスの裁判を任せるほうがよしと考え、ヘロデ王のもとに送ったのである。これはピラトにとって、最悪の罪の責任をまぬかれる好機会であった。これまではローマの総督として、ヘロデ王の権限を快しとしていなかったようである。人間の権力というものは、独裁的であればあるほど栄誉に輝くものである。対立する権力があると相対的になり、敵視の形を構成するものである。
               ピラトはこの際一歩さがった形で、自分の罪をまぬかれるために、ヘロデ王の権力を認めて、イエズスを裁判するように願ったとみることができる。
               ヘロデ王は、自らの権限がはじめてローマの総督から認められ公認されたことを喜んだ。聖書に「彼はイエズスを見ると、非常に喜んだ」とあるのは、そのことを含めてのことである。そのときの彼はとくに、奇跡をおこなうイエズス、天からのしるしをおこなう彼を見たいと望んでいたので、やっとかなえられたという思いだったのであろう。神からつかわされたメシアであって、人民に評判の高い人である彼の裁判をするとは、全国民にかけて、これほど名誉に値する職権を持ったためしがなかった、と感じたかもしれない。もともと傲慢であるヘロデの心は神のような威光に輝く思いがしたであろう。それで「彼を見ると非常に喜んだ」との表現は、今に至るまでまざまざと目に浮かぶように福音記者は書きとどめている。
               一方ピラトから送られてきたイエズスの心は、どんなものであったか、誰も押しはかることはできない。この場合、タライまわしにされる一般人の心はどうであるかと言っても、結末のつく問題ではない。それが犯罪人であれば、人びとから足蹴にされるものである。イエズスの場合もまさにそれであった。ヘロデ王にまわされても、イエズスの釈放は期待できなかった。
               ヘロデはちょうど一年前か二年前に、預言者ヨハネに、自分の罪を責められたので、牢獄に閉じ込め、誕生日の祝日に、悪びれもせずヨハネの首をはねて殺した。彼はピラトよりも深い罪の権化のように思われるのである。
               それに反してイエズスの心は、聖なる神に対する人間の罪の違反を謝罪し、無限なる神の正義を満たすために、不正なる仕打ちを耐え忍んで、ひたすら従順の償いを御父にささげるのであった。不正なる罪は、不正なる苦しみと死をもって償わなければ、バランスがとれなかったようである。

               

               《しかし、人々は一斉に「その男を殺せ、バラバを釈放しろ」と叫んだ》(ルカ23・18)
               ヘロデ王は、イエズスに死刑の判決をしないで、ピラトのもとへ送り返したので、二人とも彼に罪がないと公然と言い放ったことになる。ピラトが、例年の過越祭の行事には、一人の罪人が民衆の願いによって釈放される慣例を思い出して、民衆に叫んで言った。そのとき、釈放はバラバかキリストかと問いかけた。バラバは、死刑囚で暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの一人であった。そのとき大司祭たちをはじめ、民衆の叫び声は、一斉にバラバを釈放しろというものであった。ピラト自身の判断では、よもやバラバという声ではなく、メシアであるイエズスであると信じていた。それはイエズスのこれまでなさった善業である癒しの奇跡を多くきいていたからである。しかし、反対にその男を殺せという恐ろしい叫びであった。
               このとき、人間の常識は通用せず、以上に殺気じみた激昂が飛び交い、神からつかわされた神の子、自分たちの救い主の死を心から要求したのであった。しかも、方法として神にも人間にも呪いとなる十字架の死刑を求めたのである。これほど人類の歴史のなかで、不正な死刑があったであろうかと、疑わざるを得ない。彼は、ユダヤ人としても二千年もの太祖アブラハム以来の待望をかけてきた神の子、メシアであったはずである。しかし彼を死刑にしたということは人間の考えでは及びもつかなかったほどのことである。
               要するに、人間が神の知恵を試みたのである。神の約束は、人の言葉によって伝えられているが、人間はそれが真実であるかどうかを言葉だけによって知ることができず、それに伴う奇跡かしるしがなければ、真実性がつかめなかったのである。アブラハムの子孫として、ユダヤ人たちは、イエズスがメシアとして奇跡かしるしをもって、十字架の死刑さえもかなぐり捨てて、十字架より降りて歩むことを要求したのである。そうであってこそ、ユダヤ民族を救うことのできる真のメシアであると承認することになる。心のどこかで、試してみようとしたのである。
               イエズスは、かつて砂漠の中でサタンの誘惑に対して「あなたの神である主を試してはならない」(マタイ4・7)と言って悪魔を排斥した。そのときの群集心理は、イエズスが本当のメシアであるかどうか、偽り者であれば、なおさら十字架にかけて殺して当然なことと思えたのであろう。神の子であるかどうか、彼が自分でそう言ったので、なおさら確かめる必要がある、と考えたようである。自分たちの見る目で納得がいくように試みたのである。そのために、選んだ呪いの道具である十字架である。その場合、信仰ではなくて、認識を得るということであって、知識を得んとすること以外のなにものでもなかった。
               もしやイエズスが、十字架の死刑を不当なものとしてかなぐり捨てて、メシアの威厳と権威をあらわしてその不正をただすのではないか、と期待をかけるよりも、彼が十字架の死刑をうけて、神の呪いのしるしのもとで、すんなりと死を迎えるのであれば、偽りのメシアであるという証拠が成り立って、自分たちの行為が神のよみするものとなると考えたのである。
               聖書は、イエズスの死の際に太陽が暗み、地震が起こり、神殿の幕が二つに裂けたと記しているが、それらを見ても大司祭たちの不信仰は少しも変わらなかったようである。
               今日の世界の人びとも、福音の言葉を読んで知ってはいるが、あらためてイエズスが自分たちの救い主であったと信ずる者は少ないのではなかろうか。キリスト信者でさえも今日では、ペトロやヨハネ、パウロのような信仰者はないであろう。キリストの死は、文明の世界においては意義がうすれて、かすんでいるようであり、バラバの釈放がもっと重大であると考えているふしがある。それは、今日の世界では、死刑廃止の運動が取り上げられ、主論になりつつあるのをみてもわかる。
               二千年前、バラバかキリストかと言ったとき、キリストの代わりに無罪放免となったバラバのように、われわれ罪人がキリストの死のおかげで、神の前に洗礼の秘跡を受けることによって無罪放免のお恵みにあずかれることは、隠された無限の神秘である。人類一般において、大いに意義があるものとしてそのことを受け取らなければならない。そうであってこそ神の救いの真理が今の世界においても樹立する。一人のイエズスの死によって、人びとの無数の罪が神のみ前にゆるされているということは、人間の知恵では納得しがたいものであり、信仰の知恵で神の愛の不思議さを悟る以外にないであろう。

               

              ヨハネ福音
               《大祭司は、イエズスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエズスは答えられた。「わたしは世に向って公然と話した。わたしはいつもユダヤ人が集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜわたしを尋問するのか、わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々はわたしの話したことを知っている」》
              (ヨハネ18・19~21)
               アンナス大司祭はイエズスに尋問したのは自分の信仰のためではなく、彼を裁くため、死刑に処する手段とするためであった。そういう目的であれば、彼が自分の教えを聞いた人びとに尋ねるがよいと言ったのは正しいことである。
               今日、福音宣教の目的で、世界各地において、人びとはイエズスの教えを、キリスト教諸教派の形でのべ伝えている。宣教に従事している人びとも、自分で学んだ知識や学識、自分の信仰に応じて語っていることが多く、他の者たちよりもすぐれていて、本当のイエズスを語っていると自負していても、神の目からすれば、それは自己にとらわれているのみで誤りがある。キリストの裁判にあたって、彼の死刑を正当化するために、証人たちの証言が求められたが一つとして一致することがなかった、という。今日の福音宣教の言葉も一致性に欠けているならば、それは聖霊の能力によるものではなく、そこには神の生命一貫した一致である聖霊の働きを見ることができない。したがって信仰の一致性に欠けていれば、キリストの教会はまことの一つの神秘体ではなく人間的な組織にすぎない。
               キリストは世に向って、公然として語った。今日の人びともキリストについて、公然として語っている。しかし聞く人びとの心に浸透性がないのはなぜであろうかと、問う必要があるのではないだろうか。ほんの少しでも自分の名誉と利益を求める心があれば、神の言葉であっても、神を求める心に欠けることになる。それはキリストが聖パウロの心のうちに生きていたように、語るのではないから、キリストが真に語るのではなく、単なる人間が語るのであって、聖霊の結実である神の言葉を効果的に伝えることは不可能になるのである。
               キリストの裁判において、彼が始終沈黙を続けたのは、人間の言葉に対してであった。彼が答えたのは、大司祭カヤファが、神の職務的権限をつかって、彼に命じたときのみであった。彼の答えは世の終わりに、公審判があることを示して、世界の審判者が再現なさって、全人類がいやおうなしに彼の前に集められ、公審判を受けるという預言であった。この隠れた真理は、ずっと世の人びとに隠されているもので、現代の人間の自然の能力ではとうてい想像もつかないものである。

               

               《イエズスがこう言われると、そばにいた下役の一人が「大祭司に向って、そんな返事の仕方があるか」と言って、イエズスを平手で打った》(ヨハネ18・22)
               下役は、大司祭を最高位のもとあがめ、イエズスをいやしい罪人として、平手で頬を打ったのである。世の顕職は、往々にして人びとにこうびをうるものである。捕らえられたと言っても、イエズスは神の子であり、神のメシアであって、神の右の座につく最高の品位のものであった。現世的な人の目では、今もって彼の真の姿は隠されている。この世界においては見えない神の姿は、ただ神の言葉による信仰の鏡を通して見えるものである。大司祭の下役の男は、まことの信仰がなかったので、イエズスの言葉を単なる人間のものとして受け取り、それに憤慨して打ったのである。
               人の心が清ければ神を仰ぎ、信仰の道を通して、神の真理を受けるのである。現代に生きる人びとも、聖書を読みその言葉を容易に理解したとしても、それがよき種として実りをもたらすよい畑、心がなければ、これといった収穫が得られない。それは不思議なことである。人の心は世の欲におおわれて、自然の能力のままに生きるので、神なしの世界をよしとして生きることになるのである。
               使徒ヨハネの手紙には「目の欲、肉の欲、生活のおごり」などこの世を愛している者は、神の愛にとどまることはできないと言っている。目の欲は、人びとにとって大きな喜びとなり、幸福を提供するものである。昔から人びとは宇宙のかなたにまで幸福を探し求め、その欲望はつきることがなかった。また肉の欲は、人間がこの世に生きているかぎり、そして肉体の生命の続くかぎり、快楽として無限の対象を追求するものである。生活のおごりにしても、人は自由の世界を泳ぎまわって、権力と富貴の光栄を求めて、やむことを知らない。人間は欲に従って、いくらそれを追い求めても、そうしたことは神とは無縁のものであって、神に出会えるものではない。
               神は人間の見えない世界、霊の世界、神秘の世界に存在するもので、福音を通して神の知恵や意志が人に伝えられるが、単なる人の知恵では悟りがたいものである。この隠された宝を発見できるのは、神の光と助力による信仰ひと筋の道だけである。大司祭の下役の男が、イエズスの言葉をきいて、怒りに燃えて彼を打ったのは現代の無神論者にも似通った行為であるのではないだろうか。それは恐ろしいことである。